2ch、南モンゴルを救おうpart2【×内蒙古】において宿酔氏によって語られた
  南モンゴル人の手記です。

  http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/china/1114090796/l50
 
  
 内モンゴルからウランバート ルへ脱出した人の手記原文。
      http://www.olloo.mn/modules.php?name=News&file=article&sid=13453&catid=150
      
モンゴル ・アルドチラル(民主化)新聞掲載

  
 執筆者デ・ムルン氏はスウェーデンにおいて病死しています。
      (死亡に関する事実書:http://www.tsahimurtuu.mn/moron.php    


           手 記 D.Muren 
                                               翻訳:宿酔

  
「モンゴル民族は2000年前に最初の国を作り、その後1162年にチンギス(テムジン)
 が生まれた事で、強力な国となりアジア・ヨーロッパのほとんどを領有し、世界中に
 その名を轟かせた。
  その後残念ながら、内部の結束を失い17世紀には、満州族・チン族連合により植民地
 の状態に置かれ奴隷化する。
  しかし、モンゴルの戦士たちは自由を勝ち取る為の闘争を続け、1911年にモンゴル
 民族は自由独立を手に入れる事ができた。
 
  1915年、中国・ロシアによるヒャクト(モンゴル・ロシア国境沿いにある町)条約により、
 国は圧力を受けモンゴル国の国土は今の広さに限定されました。
  その条約が締結された時から、中国・日本に支配されたが、モンゴル民族は膝を屈する
 事がありませんでした。
  トゴトホ・ガーダ・バワウジャブ・メルセ・デムチグドンロブと言う多くの人々が、モンゴル国
 の自由独立の為戦い、大国(中国・ロシア)の政策により殺されました。
  日本の敗戦後、中国国民党軍(モンゴル側呼び名:ガミン軍)が逃亡した事を期に、中国
 共産党はプロパガンダを駆使して、1947年に内モンゴル自治区が作られました。

 
 内モンゴル自治区が出来てから50年になりますが、この50年間内モンゴルがどれ程
 苦しい道を歩いて来たかについて、実質的な証拠に基づき世界中の方々に(内モンゴル
 の人々の声が)届く様に頑張って書きました。
  この一文は、アメリカのHuman rights organizationが1991年・1992年に出版した
 「分離している内モンゴル」、「分離する事が続いている内モンゴル」、デムチグドンロブ
 (徳王)著の回想録「招待されて行って逮捕された後」「内モンゴル青少年センターの
 メッセージ」、アルタイが1921年に出版した「内モンゴルの苦しい状態」及び私が体験
 した事を基に、この小論文を書きました。

 
 モンゴルの諺に「一頭の牛の角が揺れれば、千頭の牛の角が揺れる。」と言うのがあり
 ます。
  苦しんでいる内モンゴル民族の人々を支援している、外モンゴルの学生組織「デムチグ
 ノロブ皇太子」の支援を有り難く思っています。
  この世で人は百歳まで生きる事が出来ませんので、自分・自分を愛しましょう。
  私は、この小論文を中国民族に対しては書いていない。
  今でも苦しみながら戦い続けている、ロシアのトワ族、カザフ族(現在独立国)、内モン
 ゴル族、チベット族、ウィグル族などの民族に「自由の為の戦い」を呼び掛ける為に書い
 ています。
 私たちが必ず勝つのは間違いない。


     
良い望みが実現される。
    蒼い空、宝が一杯の大地
    強きチンギスの庇護の下、
    我らがモンゴルに栄光あれ、
    万歳・万歳・万歳


 
私は奏上する。

 人は三回生きると言います。
 一回目は、母のおなかの中で過ごす十ヶ月間、 二回目は、この世に生を受け過ごす
 人生です。

  この世に生を受ける時、神は「お前は何処に生まれたいか。」と尋ねるそうです。
  私は「万里の長城のある所」と応えたのでしょう。
 万里の長城の南には、中国民族が農耕をしながら住み、北には遊牧民のモンゴル
 民族が草原で、家畜を飼い、狩りをして自由な生活を営んでいました。
 神は私の二回目の人生を「万里の長城」の北側に与えました


 
 私は、モンゴルのソノド旗(旗:古いモンゴルの行政単位、街の意味に近い。)と言う所で、
 1964年、父ダバーイサンブオ、母バダムリャンファの長男として生まれ、サイハン 
 オルジイト ソムで子供時代を過ごした。
  そこは、母方の祖父の家で、祖父は家畜の世話をし、仲間達と羊毛でフエルトや布団、
 ゲル等
(一部省略:ヨーグルトや服の話が書いてある。)を作り生活を営んでいました。
  私は、そこでモンゴル人としての生き方を覚え成長しました。
(一部省略:モンゴルの作法、
  生活習慣について触れられている。)


  妹が一歳になった頃、今でも忘れる事が出来ない事件が起こりました。
  その時、妹は病気になりマオ
(中国共産党の役職名?)である医者が中国軍と来て診察後、
 毒を塗った針
(針灸用)で妹を刺して殺害、その後母を連行し投獄してしまいました。
 妹の殺害理由は、「モンゴル人の子供だから」と言うものでした。
 一歳の幼児に何の罪があるのでしょうか。
  その時、父と一緒に仕事をしていた女性をモンゴルのスパイと呼び、彼女の股間
(性器と
 書いてある。)
に太い麻縄を通し、鋸を引く様に切り開き、その後、銃の薬包を切り開いた
 性器に入れ爆殺してしまった。
  この事件の時、中国軍が沢山のモンゴル人を殺した事は、今でも忘れる事が出来ません。
 

 
 私が小学校へ入学した6歳の時、中国共産党はモンゴル民族を殺し、モンゴルの文化
 遺産である寺院を破壊し貴重なモンゴル語で書かれた書籍を焚書してしまいました。
  私の日本語の先生デルゲルチョグトは1940年頃、日本の学校を卒業し内モンゴルの
 若い人々の文化・教養向上の為、帰国し先生をしていましたが、中国共産党より拷問を
 受け重い傷を受け、彼の奥さんは下半身不随意となり、一人息子は伝染病を感染させ
 られてしまった。
(息子の生死は不明、生体実験?) 
  父は私に「もしも、中国共産党から逃げる事が出来て、外国に行く事が出来たならば、
 必ず我が国の惨状を世界中の人々に伝える事を忘れてはいけない。」と言いました。

  時が流れ、1976年私は中学校に入学しました。
  この時期になると、中国共産党がもっと力を持つ様になり、大学へ進学するには学問を
 如何に積んでいるかではなく、中国共産党に忠実であるか否かを調査し許可される為、
 進学希望の学生達は中国共産党の新聞を読んで試験を受け進学していた。
  とても恥ずかしい信じられない事でした。


  
中学校の三年間、私は色々な本を良く読み勉強しました。
 私は、その後フフホトの高校で勉強する事になり、その事が田舎と都会の違いを理解
 させてくれました。

  1981年、私はウラーアンタブの大学に入学した。
 この時期、中国共産党は内モンゴルへ次々と多くの中国人を入植させ、草原を開墾し
 農業振興・モンゴル人学生の減少政策・モンゴル人の長官を更迭し、中国人の長官を
 就任させる事などを計画実行していましたが、モンゴル人学生が、これらの計画を書い
 た中国共産党の極秘文書を発見し、それが元で大学紛争へと発展、大学の授業をボイ
 コットする事態となった。
(その顛末については書かれていない。)

  8月15日の深夜12時頃、モンゴル人学生と中国人学生が喧嘩をする事件が起きた。
  原因は、中国人学生が西瓜にモンゴル人の顔を描き、月に供えて割る儀式を行って
 いた事です。
  この儀式の意味は、中国人が内モンゴルに勝利して、内モンゴルが自分達の物になっ
 たと言う意味で、これを見たモンゴル人学生は激怒し「私達は西瓜ではない、本物の頭
 を割る事が出来る。」と叫び、石を拾い中国人学生の頭を殴りつけて大怪我をさせてしま
 った。
(この事件の顛末も書いていない。)

  1982年始め、私はオルゴン ソムの学校の先生に就職しました。
  その頃の内モンゴルの若い人は私も含め、世界中の発展を知らず、数多くの中国人
 入植者と同じ地域で生活しているにもかかわらず、中国よりも色々な点で内モンゴル
 が弱体化している事に気づいていませんでした。



  
中国共産党は、外モンゴルとの国境の出入国管理局や税関に、中国人にモンゴル語を
 教育しモンゴル人として配置し、実質中国人による管理を行った。
  内モンゴルに既に入植している中国人達もモンゴル語を巧みに話し、新たに入植する
 中国人に徹底的にモンゴル語教育を施し、モンゴル人として入植させた。
  この民族入れ替えを行う為、この事に気付く恐れのある内モンゴルの著名な知識人階級
 を多数殺害し、内モンゴル人に入れ替えが気付かれないようにした。
  内モンゴルと中国は「平等の権利」を持つと言うが実は平等ではない。
  中国人は「モンゴル人は信用できない。」との理由で職を与えず、自治区とは名のみで
 中国共産党の内モンゴル支部が全権を掌握している。
  今の内モンゴルの長官、ウラーアンフウは自分の事を「モンゴル人」と称しているが、彼は
 中国人である。

  1949年にデムチグドンロブ
(徳王)は、中国の五民代(中国五民族の代表による最高意志決定
 機関)
に対して、内モンゴル自治区を廃止して、独立国とする要望書を提出したが拒否され
 ている。
  この時、日本・アメリカは積極的な支援は何もしてくれなかった。
(1949年当時、日本は自分
 の事で手一杯の筈、アメリカも戦後の冷戦中で手出しは出来なかったであろうと思われる。)

 
  つい最近の
「内モンゴルの人権を守る会」が出したレポートに、過去40年間に中国政府
 により殺害されたモンゴル人の数が報告されています。

   
  年  代 中国共産党に殺害された
   モンゴル人の数

 1947年               12,000人
 1948年〜1952年    20,000人
 1953年〜1956年    10,000人
 1957年〜1967年      6,000人
 1968年〜1969年    25,953人
 1970年〜1990年     7,000人
 拷問により傷害がでた人     79,000人

  1991年 政治犯として投獄された人 50人、自宅監禁 400人。上記レポートの中で
 一番無念に思うのは、1969年モンゴル語で授業をしている中学・高校・大学を全て廃校
 とし、モンゴル語の書籍・仏像・古典的価値を持つ歴史書等を焚書し、モンゴル民族の
 生活慣習を全て禁止した事である。
  モンゴル民族が居住していた草原には、「鋤」が入れられ農場となり、家畜を飼育する事
 が出来なくしてしまった。
  この時期、私の両親は父母共に投獄
(時期を考えると政治犯か?)されており、残された私達
 子供は隣の子供達と一緒に、死んだ鳥を拾い肉を焼いて食べたり、人の食べ残しを食べ
 たり、やっとの思いで餓えを凌いで生き抜いた。
 
  中国共産党がモンゴル民族に対して行った数々の事は大変過酷な物でした。
  例えば、人体に電気を通したり、口の中に人糞を詰め込んだり、舌に箸を突き刺したり、
 頭髪に沸騰した油をかけたり、焼けた鉄棒を押し付けたり、燃え盛る火の直ぐ側に長時間
 立たせたり、親指を針金で縛りぶら下げる、生き埋め(頭を出した状態で)にする、炎天下
 に長時間立たせる、刺草で鞭打つ、木のベットに手足を縛り着け石炭で下から焼く、無理
 矢理大量の水を流し込む、頸から重い物をぶら下げる、女性の性器を太い縄で擦りきり銃
 の薬包をいれ爆発させる、沢山の男が強姦する、生きたまま開腹し内臓を引きずり出す、
 生皮を剥ぐ、生爪を剥ぐ、眼をえぐり出す、耳を削ぎ落とす、歯を抜く、指を切り落とす、頭
 に釘を打ち込む、男性の性器を切り落とす、等々の拷問を行っていた。
 
  中国共産党に、何故モンゴル民族をこの様に憎しみ殺しているかと問えば、彼らは「モン
 ゴル民族を殺し終われば、モンゴルの王チンギス・ボグド・テムジンが彼の子供達に残した
 宝と万里の長城より北の広い国土を領有出来る。」と答えるだろう。
  彼らは南人民政府・円の党・青年達の党・団結党・友情党・文化党・民主党・南人民連合・
 赤角党・独党・公平党・砂の党・ゼウェグジャブ党・ゾグトバドロフ党・柳の党・酒飲党・娘党・
 馬糞党・乾牛糞党・飾党などのモンゴル人政党をでっち上げ、モンゴル人達をそれらの
 政党の党員と言う事にして、これを理由に政治犯として皆処刑してしまった。
(政党名は直訳
 ですので、実際に中国側がどの様に呼んでいたかは不明。)

 
  中国共産党は、何故モンゴル民族や少数民族を抹殺するのでしょうか、私達内モンゴル
 人を豚のように柵の中に閉じ込め、豚のように殺して食べても抗議の声を上げさせない為
 です。


  今のモンゴル民族は中国共産党の強い掌握下にあり、彼らの意のままに動く モンゴル
 人長官により迫害を受けています。
  モンゴル人の長官達は、ロボットの様に中央の宮殿から送られてくる指令書を読み部下
 に渡すだけで、自分たちは何一つ権力が無く、自分の政策などを実行してはいません。
 内モンゴルのモンゴル人には演説や集会などの言論の自由がなく、中国共産党に入党し
 何も発言しなければ普通の生活を送る事が出来るが、これでは生き甲斐も無く何の為の
 人生でしょうか、
 この様な人生を送って、これが人の人生でしょうか。

  1987年、私は二ヶ月間をかけ内モンゴル西端のアルシア・バヤン・ウタイ・バヤンヌウル・
 ブガト・イフズウ・ホホホト・ウラアーンタブ・シレーンゴル・ウラーンハト・ジレム・ヒャクガン
 など8県・1市・50郡、全部で5000kmを自転車で旅しながら、自分の眼で内モンゴルの
 実状を見聞きし、新しい歴史の資料を集めました。
  1980年、北京からクァンジュウまで中国の北から南まで4000kmの旅をして中国国内
 の雇用状況を調査しましたが、これらの旅で私は中国共産党がさらに大嫌いになりました。

  1987年に父が、1967年の事件による投獄の時拷問で受けた傷が元で発病し亡くなり
 ました。
  母も同じ年、やはり1969年の事件による投獄の際に受けた傷が元で神経をやられて亡
 くなりました。
  私は中国で生活していれば、いつかはみんな殺されてしまう事が良く判りました。
  中国共産党の言う通りに、食べて・飲んで・何も言わず生活していてはいけません、これ
 が人の人生と思いますか。
  私達が人間であれば、他の民族の様に公平で民主的な社会で自由に演説をし、公的な
 集会や選挙に参加する権利があります。

  1987年、バァートル、ウラァーンゲレル達は「内モンゴルの人権を守る会」の名に於いて
 国連に内モンゴルの人権状況を告発する為に、政治に関する難民
(政治難民)として
 外モンゴルに脱出した。

  その当時、ソ連下のモンゴル人民革命党は世界中の誰も知っている国連の政治難民の
 原則に反し、中国共産党へ彼らを引き渡した。
  全てのモンゴル民族の信頼を集め、保護者であるべきモンゴル国が親戚である内モンゴル
 人に何故この様な事をしたのでしょう。
  チンギスの血肉を分けた親戚は一千万人もいないのです、モンゴル人一人一人が助け合
 う事をしないまでも、裏切る事だけはしないでほしい。
  内モンゴル民族は母のいない孤児、内モンゴルを外モンゴルの公安省は「中国のスパイ」
 と言い、中国は「モンゴルのスパイ」と呼びます。
  モンゴル民族の全てが一緒になって戦う事が出来なくても、どうして助け合う事が出来ない
 のでしょうか。
  人は永遠に生きる事は出来ないのです、人は何の為に生きているのでしょうか、民族に
 関係なく只食べる為だけに生きるのですか。
  人は3回目の人生を生きるべきだと思います、しかし、その人生は過酷で容赦のない
 ものです。
  私は2回目の人生を内モンゴル人を助ける為に、残り少ない命を差し上げます、それが
 私の生き甲斐です。
(当時ソ連支配下の外モンゴルと中国は相当のスパイ合戦をしていたので
 あろうと言う事です。国境管理を厳重にした事と考え合わせると、脱出だけでなく潜入もかなり多かった
 のでしょう。 )

  
モンゴルの方角を向いて歌を歌い腕を折られた

  1947年、内モンゴル自治区が公式に公布され、マンバサルと言う若者が独立国を創る
 と独立運動を起こし処刑された。
  1948年、20000人の牧民・農民が地主として自分の土地を守る為に戦いを起こし処刑
 されました。
  1959年、チベットの自由独立獲得闘争に於いてダライ・ラマの指導した独立運動を鎮圧
 する為、内モンゴル騎兵隊を強制徴兵しチベットで軍務に就かせる。
  チベットの人々は、内モンゴルの騎兵隊を見て「チンギス・ハーンの軍がチベットの援軍に
 来た。」と信じて、跪くと中国軍と化していた内モンゴル騎兵隊は間髪を入れずチベット人
 を殺してしまった。
  この作戦終了後、内モンゴル騎兵隊がどうなったか、内モンゴルの人々は誰も知りません。
 
(内モンゴルに帰還した者が一人もいない。)
  中国共産党の指導層が、内モンゴル騎兵隊を使いチベット独立運動を鎮圧させたのは、
 一つ弾で三匹の兎を仕留める中国の悪知恵でした。
 
  (1)内モンゴル軍の兵力を削減する。

  (2)内モンゴルとチベットを仲違いさせる。
(チベット仏教で結ばれた強い絆を断ち切る。)

  (3)中国国内に居住する、モンゴル人・チベット人同士を相争わせる。
 
  1963年、モンゴル・中国に国境画定問題が表面化するに従い、大学の学生達が反攻に
 打って出ました。
  医学部の学生を中心とする学生達は「モンゴル・中国の国境は古来より万里の長城である。
 何を今更新しく国境を決める必要があるのか。!」と宣言しました。
  その為に60人の学生が処罰され、16年間政治犯として刑務所に投獄された。
  1968年は内モンゴル民族にとって一番悲しむべき年であった、北京の指導層達は昔も
 今も一度も存在した事のない「内(モンゴル)人民党」と言う、
 でっち上げた組織があるとして、「この党は二つのモンゴルを一つする目的の為に設立さ
 れた。」といい加減な誹謗をし弾圧を加えた。
  この年、1000人が政治犯で処刑された。

  1968年、内モンゴル自治区のモンゴル人の人権が、どの様に侵害されたかを今から
 書きたいと思います。
  ダルハン・ムウミャンガトで一人の母親が2歳の子供におっぱいを授乳中、この母親は
 苦しめて殺され外に捨てられました(状況が良く判らないので、原文まま)、すると2歳の
 子供は死んだ母親のおっぱいにすがりつき、おっぱいを飲んでいた。
  外モンゴルで大学を卒業した女性が、スノド・ソムで学校の先生をしていたが、「モンゴル
 のスパイ」の嫌疑を架けられ性器を太い縄で(股間に通し)引き切り性器に銃の薬包を
 詰め込み爆殺した。
(随所に女子供が同じ殺され方をする場面があるが、これはモンゴル民族の
  子孫を増やさない為と思われる。)

  バヤンノウルと言う所のモンゴル人農場長を逮捕して、「外モンゴルと一緒となる為の
 陰謀を吐け」と有りもしない話で、真っ赤に焼けた鉄のストーブで焼く拷問をしていた時、
 その農場長は近くに居た中国人を抱きしめて、赤く焼けたストーブの上に飛び込み一緒
 に焼け死にました。
  焼けた鉄に張り付いた焦げた肉の様に、赤く焼けたストーブから引きはがす事ができま
 せんでした。
  内モンゴルの商店主アルタイ(40歳・女性)を強姦のうえ、背骨を折り殺害した。
 義理の父と息子の嫁、母と息子を大勢の前でSEXさせたり、
(遊牧民は家畜の近親交配で
 奇形児が生まれる事を良く承知しているので、近親相姦は絶対にしない。)
夫婦を無理矢理離婚させ、
 その子供を遠方の施設に入れたり中国は様々な謀をやってきました。

  
1968年の内モンゴルの荒廃した状況についての三つの統計を私は持っています。

  
(1)ゼンミンジバオ新聞に出た、1976年に中国政府が発表した小報によると、
     その年(1968年)内モンゴルに於いて16222名が殺され、
     340000名が傷害者(拷問による後遺症と思われる)となった。

  (2)内モンゴルにあった中国共産党の支部長ウランスウの講演録によると、
     35000人を殺害したと書いている。

  (3)内モンゴルの大学が集計した統計によると45983名が殺害され、
     拷問による傷が元で障害者となった人は、790名。


  1974年3月、内モンゴル教育大学の学生アルスラン他4名の青年が食事中、百道警察
 のヤン・ユタサイが指揮するグループが入って来て逮捕され、あの方法で拷問される。
 
(どの拷問か判らないので、原文まま)
  4月1日、ホホホトに住んでいるモンゴル人が四人の逮捕に抗議してデモを起こし四人
 の学生を解放する。
 
  1974年、ウランサブの27〜8歳のブヤンテルゲル先生が子供達に内モンゴルの現状
 など明白な事実を話し授業をしていたが、ある日「役所の役人を殺した。」との嫌疑を架け
 られ、彼の家は家宅捜索され死んだ人の持ち物が発見された。
  彼は逮捕され裁判が開催されたが、出廷した検察側の証人は話すことが出来ない人で
 あった。
  ヒトラーが、この様な事が大好きだった様に中国の裁判所は少しもこの事を
(証人が喋れ
 ない事
)気にしませんでした。
 そして、ブヤンテルゲルは死刑判決を受けて処刑された。

  1981年、北京の公式極秘文書が流出し、人の眼に触れる事となりました。
 その公式文書には、内モンゴルの土地を全て中国が領有する事、モンゴル民族を消滅
 する事を早急に終了する事などが書いてありました。
  
  8月22日、この極秘文書に抗議して多量の檄文を内モンゴルに配布しました。
 
  9月10日、内モンゴル大学の十人の学生が中国共産党に行って、この公式極秘文書を
 北京に送り返すべきだと、撤回要求をして座り込みました。
 
  9月13日、ホホホトに10000人が集結しました。
 
  10月21日、中国共産党が内モンゴルの学生達の運動を鎮圧する公式命令を下しました。
  それに抗議して大勢の大学、短期学校、中学校の学生達が授業を放棄して集結しました。
  学生達はツイメル、ハスエルテヌ、ゾリグト、ナランベレグ他2名の6人を代表として北京
 に送りました。
 中国政府は6名の学生達を集めて説得工作をしましたが、学生達は納得せず抗議を続け
 ました。
  中国政府は「あなた達内モンゴルがチベット、ウィグルと連合して、我々と戦っても勝ち目
 は無い、
 我々には強力な軍隊があり、あなた達は何も出来ないであろう。」と威嚇し、続けて「我々
 の言う事を聞かなければ、武器の使用もありえる。」と返事をした。

  
  29日間学校の学生による封鎖が続き、2月19日この運動に参加したタランハル、ホホ
 ブゥヤン、ジャランタイ、ゼデンドルジ、フチントグス、ハスエルテヌ、ウラーンゲレル、
 チムゲー達を逮捕、刑務所に収監しこの運動は終わった。
  
  1987年、教養ある女性トルは全中国に向けて「日本への留学試験で最高点を取って
 一番になったにも係わらず日本への留学を中国政府に拒否されてしまいました。」と発表
 した。
 
  1989年4月15日、4月21日、テムゼルトと言うモンゴル人の子供が通う幼稚園に警察
 官が行き、三歳の子供に対し「あなたの父親に誰か会いにきているか、何について話して
 いるか。」と激しく尋問した為、子供は恐怖のため神経衰弱となり、軍隊の服を着た人間を
 見るといつも泣き逃げ隠れする様になった。
  その年の秋、教育大学の学生ウルジーテルゲルを半年間尋問し続け「活動家テムゼルト
 と関係があるだろう、テムゼルトの有罪証言をしなさい。」と強要し、彼は証言を拒否した
 為、内モンゴルから他の土地へ追放された。
 
  1987年8月5日、シリーゴルと言う所のバートル、ウラーンゲレル達は内モンゴルから
 脱出、トヨタの車で外モンゴルの国境を密かに越えスフバートル・アイマグの地に入って
 モンゴル側に逮捕された。
  彼らは、外モンゴルにある国連の事務所を通して内モンゴルの人権が如何に侵害され
 ているかを国連に伝えるのが目的でした。

  1990年、シレーンゴルのナーダム
(モンゴル最大の祭り)の時、内モンゴルの学生達が
 集まりパーティを開いていると、6台の車で軍人、警察官が来て中止を命令して中止させ
 ました。
 
  1991年7月31日、内モンゴルの人権についての資料を外国人に渡したと言う冤罪で
 告訴・逮捕され、今は刑務所に入っているウラーンショブ(37歳)と言う人は、中学校
 卒業後1973年にケンジンの体育大学に入学、卒業後1976年から内モンゴル体育
 大学で先生として奉職していました。
 1981年から自分の大学で歴史学の大学院生となり、モンゴル民族の歴史を勉強して
 いた方です。
  モンゴル人民共和国
(ソ連支配下のモンゴル国国名)の内モンゴルの人権はこの様に侵害され
 ています。
  「人は人の友人」と言うコミュニズム
(共産主義)の学説がありますが、中国はこれに反し、
 この様な事をしています。」

 1991年9月11日、アルドチラル(民主化)新聞掲載:寄稿者 デ・ムルン
 (終わり)


  
翻訳:宿酔
  青字:宿酔氏による補足説明
 
 


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