- 南モンゴルの現状 -

  【モンゴルは1635年から1911年の間、中国とチベットと共に満洲に支配されていた。
  間違って「内モンゴル」として広く知られる南モンゴルは、1947年中国共産党により
  占領された。それを除けば、モンゴルのいかなる領土も中国の一部であったことは
  なかったのである。過去半世紀に南モンゴルのモンゴル人は自治権を奪われただけ
  でなく基本的人権と自由を否定されてきた。多数の漢人入植者がこの地域に定住し、
  モンゴル人を自らの土地にもかかわらず絶対少数にした。何十何万ものモンゴル人
  がモンゴルであるというだけで迫害の対象となっている。】 

                                            (南モンゴル人権情報センターより)

人口問題
 
    1990年の統計では内モンゴル自治区の総人口は2145.7万人。その中で
     漢民族が1729.87万人、モンゴル民族の人口は337.5万人。モンゴル民族は
     全自治区総人口の15.73%を占めるに過ぎない。


    1949年以来、南モンゴルの人口は560万人から3200万人と6倍に急上昇し
     同様に家畜の数も急増した。幾年にも渡る過熱した木々の伐採や放牧は毎年
     386平方マイルの南モンゴルの草地を砂漠へと変えている。

 
 
環境問題
- 砂 漠 化 -
  
   
 1950年代以降、中国政府は内モンゴル占領を既成事実にするため漢人を大量
    に移住させた。ほとんどの漢人は農民だった。南モンゴルは土地の表土を剥がす
    耕作には適していない。農業を始めて2、3年後には砂漠に変わる。 漢民族の開墾
    と開発で南モンゴルの81%は砂漠化した。北京の政府高官は自分達が脅かされる
    まで、この問題を無視し続けてきた。
    そして南モンゴルに対する政策の失敗をモンゴルの牧民とその家畜に責任転嫁した。


  砂漠化をもたらしたのは遊牧民ではなく、農耕民である
   モンゴルなど北・中央アジアの遊牧民はウマ・ウシ・ラクダ・ヒツジ・ヤギの五畜を
    放牧しその乳と肉を生活、生産資源としてきた。彼らは季節ごとに異なる放牧地を
    有しその間の移動を繰り返す。元来、万里の長城以北の地域は降水量が少なく、
    農耕に適さぬだけでなく、ある一カ所での長期間放牧にも耐えられない環境だった。
    遊牧民の定期的な規則正しい移動は、厳しい自然環境を合理的に利用するために
    発達してきた技術である。移動によって「過放牧」という破壊的な結末を避けることが
    出来たのである。

    有史以来オルドス地域は戦略的に重要な場所であったため、遊牧民と農耕民との
    争奪の地であり続けた。漢族側が時々この地を占領すると、城池を築き屯田を勧め
    た。歴代王朝の屯田地の中心地だった古城の周囲はほとんど例外なく塩田化して
    いる。灌漑により地中の塩分が上昇し結晶した塩がさらに草原に散って利用出来な
    くなっている。
   
    モンゴル人は早くから乾燥地での開墾がもたらす環境破壊に気づいていた。
    清朝末期に政府がオルドス地域へ大規模な入植と開墾を押しすすめた時、モンゴル
    族は抵抗運動を展開した。そのとき農耕を受け入れられない理由のひとつに、開墾
    による塩田化をあげていた。


  砂漠化を引き起こしたのは農耕民であり、本来の住民である遊牧民はむしろ環境
  に優しい生活を営んできた。水さえやれば作物や草が生長する、というシンプルな
  発想は捨てなければならない。乾燥地での灌漑は塩田化にもなる。


  沙漠化の原因
   モンゴルのステップの表土は、大体30センチから40センチの多年草の根により構成
    されている。大地の断面を見ると、一番上が黒い層で覆われている。その土には
    多年草が生えており、毎年その根から新しい草が出て家畜達がそれを食べて生活が
    出来ていた。開墾すると30センチぐらいの黒い表土が耕される。その結果多年草の根
    もなくなる。黒い土はある程度栄養もあり、3〜5年程は農業が出来る。2年目、3年目
    まではいい収穫も出来るが、モンゴルは風が強い場所で5年程たつと風化する。
    そして表土の下に砂状の土があり、それが出てきて沙漠化が起こる。
 
   
いったん開墾された土地の多年草の表土は二度と回復しない。数万年かけて
   出来たモンゴル草原の表土は草原の保護層である。

 

    砂漠化の主な原因(南モンゴルの被害)
     
    
1、開墾
    
 乾燥した土壌や降雨量が少ない気候条件を無視した、森林伐採による農業開発。

    
2、国営農場の乱立
    
 中華人民共和国成立後の建設兵団。中国内地から大勢の漢人を南モンゴルに移住
    させ、国営農場を作る。
    国営農場の行政権限は、旗の副旗長の行政権限と同じものとなる。地元の行政の
    指導を受けない独立した権限を持ち、地方政府の制限を受けずに開墾する。
 

   
 3、薬材採掘
    
 漢方薬の材料となる薬材を根こそぎ掘る。その薬材は大体多年草の根なので、
    南モンゴルの沙漠化の大きな原因の一つになっている。地元遊牧民と薬剤採取に
    来た漢民族との激烈な対立の原因にもなった。

    二〇世紀後半から顕著になった砂漠化
     
南モンゴルでは、1982年に家畜の分配が行なわれ、2年後の84年に牧草地の使用
    権の分配が行われた。それまでの遊牧は一部の牧草地を休ませながら交替で使う
    仕組みだったが、限られた牧草地を各個人に分け与えることにより、多くの地域では
    囲いを作り家畜をその中に閉じ込める事になった。
    この20年間の砂漠化のスピードは、かつての100年、200年の砂漠化をはるかに超え
    るものだった。
    その元凶は中国政府の南モンゴルに対する開墾と牧畜政策の誤りにある


  内陸部に暮らす少数民族の多くは牧畜を生業とし、数千年にわたって営んできたが、
  草原は砂漠化しなかった。彼らが遊牧民として移動しながら牧畜し、ぜい弱な土壌を
  傷めずに持続可能な生活スタイルを取ってきたからだ。


環境保全移民(エコロジー移民)
- 強制移住 -

  
   近年、南モンゴルにおいて「西部大開発」をスムーズに進展させるため自治区全域
   で土地封鎖、強制移住、牧畜禁止、都市化を進める「生態移民」政策を実施して
   いる。同政策は単に人や動物の移動だけではなく、中国領土からできるだけすみ
   やかにモンゴル人を排除する目的で周到に考えられた民族圧殺のプロセスである。 

   2年前から始まった「エコロジー移民プロジェクト」では6年間におよそ65万人
   強制的に移住させる。深刻な環境問題をかかえる中国が打ち出した「生態移民」
   だが、「移民」の対象のほとんどはマイノリティ・グループである。

 
    中国からの正式発表では2000年以降「環境保全移民」政策により、すでに
    16万も
のモンゴル人が草原で続けてきた伝統的遊牧生活から強制的に漢民族が
    密集している都市部に移動させられ
た。モンゴルの牧民は政府から何のサポート
    もなく家畜の売却を強要され、自らの牧地を離れ見知らぬ土地でなれない生活を
    強制されている。

  「環境保全移民」政策は土着のモンゴル人の文化破壊だけではなく、人権侵害
   以外のなにものでもない。多数のモンゴル遊牧民は、この過酷な移動政策に
   よって住まい・家畜・土地を失っている。


 発電所建設により先祖伝来の牧地を追われる牧民
    2003年7月1日シリンゴル盟シロンフーホ旗の南に位置する500ヘクタールの草原
    地帯で120万KWの石炭火力発電工場の建設作業が開始された。
    シリンゴル盟は中央政府の「環境移民」「囲封転移」(囲んで、封鎖して、移動させる)、
    「休牧・禁牧」、「都市化」の新政策を一早く取り込んだ地域である。2002年1月時点で
    3430戸、14691名の牧民が移民になった。シロンフーホ旗でも火力発電実施のため
    一ガチャ−(村)の牧民84戸380名を強制的に移動させた。
    それは祖先の墓まで移動させる悲惨な命令だった。

    
2003年7月1日、火力発電所の建設着工を祝う式典が)行われた。
    政府は、地元住民の怒りを懐柔するため補償を提示しているが、それには3パターン
    がある。
  
   
11万元(1,100米ドル)の補償が支払われるが、移住したモンゴル人は永久に
     故地には戻れず、新天地探しも個人で責任を持たなければならない。


  
 2、補償を選択しない場合政府が建てた5,000元(550米ドル)の土の家屋に住む。
     ただし、家屋を所有した牧戸はオーストラリアから輸入した乳牛を購入する
     ため政府から5,000元の借金をすることになる。

  
 3、家長が60歳以上の場合は政府から借金することができない。



     
発電所の完成により、一部の農墾漢民族がこの地域に入るきっかけとなり、純牧業
    地域への土地占領の機会が広がる。土地の開発利用、新たな土地の分配、企業・
    工場の進出、文化的汚染、治安の悪化、婚姻関係の転化など従来の遊牧民文化
    (ノマテイズム)自体の大混乱が予測される。 

 森から追われる最後の狩猟民達
   2003年.8月ヤクート人達は、新しい村を建設のためモンゴルとシベリアに近い
   ヒャンガン・ダワー(大興安嶺)の中にある故地を離れた。ヤクートはエウェンキの
   一部で中国が狩猟民と認める最後のエスニック・グループである。
   新しい村でヤクートたちは狩猟を禁止されトナカイは小屋や家畜囲いの中で飼育
   されることになる。

   移住者は村を去る前に猟銃を引き渡さなければならない。
   猟師らは約1000元(120米ドル)の年収と枝角やトナカイから作る製品を売って得る
   平均4000元(480米ドル)の副収入を失うことになる。役所では、新アオシアン村に
   加工工場と観光客誘致のためのマイノリティ・ビレッジの建設を計画している。


家畜放牧の完全禁止
   
   2002年12月1日以降、トンリョー市では放牧の完全禁止策を実施している。トンリョー
   市には4346畝(290ヘクタール)の牧草地があり、320万頭の家畜がいる。放牧完全
   禁止により、同市における牧草地の3954畝(264ヘクタール)が保護され、保護地域
   は牧草地全体の80パーセントに達する。
   全市の138ソム(町)と2697ガチャー(村)に居住する43万8500世帯の牧民や農民は
   今後集約的農牧業移行してゆくことになる。

   
 森林警察が草原封鎖、放牧禁止を徹底
   シリンゴル・アイマク(錫林郭勒盟)の全ホショー(旗)、ソム、ホト(市)の森林警察は、
    放牧一時または全面禁止区域・休閑地・森林回復プロジェクト区域・沙漠化要因抑制
    プロジェクト区域で放牧禁止を徹底するため警官を派遣している。


  漢人農民の襲撃
    2002年7月1日から22日にかけてアルタンツォク・ソムのアラク山及びアルタン・
    テブシ山付近に宿営するモンゴル牧畜民らが甘粛省張掖地区の漢人農民グループ
    から何度も襲撃を受けた。農民らの目的は牧畜民の放牧地を耕作するため占有する
    事である。少なくとも40人の牧畜民が暴行を受け、その多くは手足を骨折。牧畜民は
    強奪と治療などのために何万元という被害を受けた。地元政府に事件の解決と助け
    を求めたが、アラシャー・アイマク及び張掖政府当局は事件を黙殺している。
    牧畜民が受けた損害の補償はなく事件の犯人らに何の処分も下されていない。


   
過去においても隣接する省から漢人農民・移民達が放牧地占有の目的で牧畜民を
  襲撃してきた。中国政府はこのような事件やモンゴル人らの抵抗運動を無視し、仮に
  取りあげても漢人側に有利な紛争解決し続けてきた。
  このような状況の繰り返しが結果としてモンゴル人が放牧地を放棄することになる
  ばかりでなく、伝統的なライフスタイルも捨てざるをえなくなっている。


    巨額の損失、しかしそれは誰が作ったのか?
    
国連環境計画は中国全体の環境被害から毎年65億ドルの直接的な経済損失がある
   と見積もっている。これは幾年にも及ぶこの地域への中国政府の裁可を受けた漢民
   族の移住の結果として起きた問題である


   
 羊飼いたちからの抵抗
    
 2001年5月に東部のBagariin Bannerで地方警察と羊飼いたちの衝突があった。
    100名近い警官と治安職員が素手の羊飼いたちと戦った。41匹の家畜が没収され、
    警官が羊飼い達の家畜を没収しようとした時に4人が殴打され、重傷を負った。

    幾つかの地域では移住計画が牛飼いたちからの強硬な抵抗に遭遇し、地方政府の
    高官は羊飼い達を追い払うために警察に依存した。

    
彼らの大半には政府による適切な食糧・水・住宅・シェルター・医療サービスの
   保障はない

 
 
教育問題

    
南モンゴルのモンゴル族の中で実際にモンゴル語を母語としている人口は220万人。
    モンゴル人総人口の88.36%である。その中でモンゴル語と漢語(中国語)が併用出来
    る人口は11%、漢語がある程度理解できる人口は19%を占める。漢語がまったく理解
    できず、モンゴル語のみでコミュニケーションを行う人口が58%である。


   民族語を失い、言語的に漢化された人々
    19世紀以来この地域に大量の漢民族の移民が入植したことにより、この土地の元来
    の住民であるモンゴル人の伝統的な生活に著しい文化的変化をもたらした。それは
    入植者であった漢民族の人口が土地の住民の人口を大きく上回ったことと深い関係
    がある。その結果彼らが代々使ってきたモンゴル語を完全に失った人口は全自治区
    内には29万人に達し、自治区総人口のモンゴル族の11.64%となった。

  1990年代以降、市場経済の原理が社会全体に導入されたことにより、モンゴル民族
  の民族教育の状況が激変し、危険的状況を迎えようとしている。

    経費不足
    毎年国家予算から経費を支出、民族学校を援助することがあっても毎年増える生徒
    に対してその金額はほとんど変わっていない。物価が上昇する中、民族教育に使わ
    れる金額の比率は減少している。

    民族学校の経費不足のため国や自治区政府からの資金の大部分は給料などに使
    われ、学校の建設などに使われたものは少ない。教室の中の机やイスなどの設備も
    不十分な状態が続いている。地方の多くの所では教室や寄宿舎が不足している。
    多くの生徒たちが危険な校舎のなかで勉強している。

    近年になり子供達を漢民族の学校に行かせるモンゴル人が増えている。問題は
     南モンゴル全体ではモンゴル語を使われる場所が年々減っていることである。
     モンゴル語を習っても就職の時は漢民族と中国語を使って競争しなければならない
     ため有利にならず、むしろ競争力が失われ、敬遠される状態にある。

    1991年度の子供の年間にかかる教育費は小学生500―600元、中高生4000元、
     大学生8000元が実際費用である。近年はさらに費用がかかるようになった。
     生活に占める大きさは年間の牧民平均世帯収入3354.,71元(シリンゴール盟)と
     比較すれば極めて大きい。

 
    学費と生徒の学校中退
     ここ数年、南モンゴルの田舎では学校を中退する生徒が急増している。その主な
     原因は学費の問題である。これまで国から提供されてきた地方や少数民族地域の
     学校を援助するための資金も最近は減少される一方で、完全停止する場合すらある。
     基礎教育、すなわちこれまでは義務教育だったはずの学費のすべてを個人が負担
     しなければならなくなっている。

     現在、中学生の一年間の学費が1500元に上昇し、小学生も年間1000元以上の
     学費を払わなければならなくなっている。
     内モンゴル自治区では一人当りの年間平均収入が3―4百元にも満たない貧困
     家庭が数多く生まれている。学費は貧困家庭の数人分の年間収入に匹敵する。


    モンゴル民族教育の危機
     モンゴル語の場合、都市では幼稚園から大学までモンゴル語で勉強できる完全な
     教育制度が設けられていない。 そのため、民族のことばや文字を自由かつ自然に
     習うことは大変難しい問題で、やむをえず漢語を第一言語として習得する人々が増
     えている。
     1982年に内モンゴル自治区ではモンゴル語で勉強する小、中学生は全モンゴル人
     学生の73%を占めていたのに対し、1995年は50%を切るようになった。
     都市部、あるいは言語的にほとんど漢化している地域ではその数はさらに減少し、
     10%まで落ちている。

  
 「生態移民」によってコミュニティーから切り離され、漢民族が圧倒的に多い都市
   部へ移住させられた結果、教育システムが崩壊の危機にひんしている。


貧困層の増大

   
 近年の改革開放政策において、内陸部は原材料供給地、第一次産業の基地として
    位置付けられた結果、地域全体が経済的な自立性を失いつつあり、少数民族の伝統
    的な生活と文化が消失し、深刻な貧困層の増大が現れてきた。

    1979年から始まる改革開放に伴い、牧民生産請負(うけおい)制がスタートし、遊牧
    草地は世帯ごとに配分された。余裕な草地がないため配分された土地だけで永年に
    わたってきた遊牧生活を行うことが困難になり、一時的貧困層が増えた。

    農民にとってはこの政策が有利になり草地を開墾しはじめた。これが農家の生産意欲
    を飛躍的に向上させ、開墾、入植により自然環境は一層悪化し、砂漠化が進行した。

    牧民の収入は、畜産品市場価格変動と自然環境に大きく関わる。電気、電話などの
    通信設備と道路の不備などにより、移動の自由と草地を奪われ、牧民地域の貧困が
    一段と厳しくなってきた。シリンゴール盟では、羊などの家畜の個体が小さくなってい
    るというが生産量全体の低下にはなっていないという説明もある。つまり、個体の小
    型化にもかかわらずトータルとして羊毛生産や肉生産に停滞は起きていないとすれ
    ば、飼育頭数の増加によってこの問題をカバーしようとしていることになる。草地の劣
    化はこうした悪循環の結果として引き起こされていくものと推測される。


   
医療保健制度の導入が都市部と牧区部では大きな差が現れている。内モンゴル
    自治区では基本医療保険制度を実施以来、自治区2284万人に対し151万人が当
    保険制度に加入し、加入率がわずか6.6%にすぎない。
    牧民にとって現段階では牧畜税、草原税、人税、土地利用税等などに加え牧畜業
    専業の牧民にとって保険料と医療負担は増加している。
 
    南モンゴル東部地域のモンゴル人は牧畜を放棄させられ一般的な乾燥地域の
    農業も出来なくなった。現在はビニールシートを敷いて、その上に土を置いて米を
    作っている。現在南モンゴル東部地域のモンゴル人社会は、中国の中でも最も貧困
    地域の一つである。沿海地域との所得の格差は10倍以上になっている。

       
民族地域自治法の改正
 
    
西部大開発の実施と軌を一にして民族区域自治法(1984年、制定)が2001年3月
    の全人代で改正された。民族自治政策は、統一国家の維持という至上命題を前提
    にし、少数民族あるいは民族自治地方の国家からの分離・独立を否定してきた。
    チベット、新疆ウイグルさらに内蒙古などの各民族自治区で起こった「独立」騒動は
    軍隊・警察を動員して武力鎮圧した。また江沢民など中国共産党指導者は中央アジア
    各国、モンゴル、インドなど近隣国家への積極的な友好外交を展開し、中国国内の
    少数民族の「後方支援基地」を遮断、分離・独立の芽を摘んできた。

    政治面で少数民族の遠心分離傾向を抑圧し、統一国家へ少数民族を求心しようと
    する中国の方針が成功するためには国内の漢族先進地域と少数民族後進地域の
    間に存在する国内の南北問題の克服である。

    中国の経済発展と所得水準の向上が、少数民族と民族自治地方にも成されなければ
    少数民族を統一国家に吸引・包含する理屈づけは難しい。情報化が進展するなか、
    中国の東部沿海地域と他のアジア諸国の経済状況と水準を知るようになった少数
    民族は、南北問題を従来より強く自覚するようになったのである。

伝統文化の破壊
 
  
 1980年からの文化革命では3000に及ぶ寺院が破壊された。  
 
   チンギス・ハン
     チンギス・ハンは、中国史上最大の国土を誇った元朝の始祖であり、領内最大の
     少数民族の一つであるモンゴル民族の祖先でもあるという理由で「中華民族の英
     雄」と称えられている。中国に暮らす各民族が皆「中華民族」の一員であるという
     「多元一体」の民族理論によるものだが、この「中華民族の英雄」というバッジを付
     けない限り、少数民族出身の英雄は中国の表舞台に登場できない。

撤盟設市・アイマクの消滅
 
   南モンゴルには歴史的に9つのアイマク(盟)があり、アイマクはいくつかのホショー
     (旗)で構成される。伝統的な行政システムは、南モンゴルの自治のメカニズムと
     して数世紀にわたって維持され、中国共産党による占領後もモンゴル・アイデン
     ティティの象徴的な意味において重要な役割を担ってきた。しかし1980年代以降、
     中国政府は移民と同化を加速し正当化するため、アイマクを市に改編し始めた。

   1983年
 ジョーオダ(昭烏達)・アイマク  「赤峰市」に改編。
        内モンゴル東部のは最も伝統的なアイマク。現地住民との協議なしで改編。
        この後、当局は多くのホショーを「県」に改編。

   1999年 
ジリム(哲里木)・アイマク  「通遼市」に改編。
        内モンゴル9アイマク中もっとも多くのモンゴル人口をかかえる。
        現地のモンゴル人の強い反対を無視して改編。
 
   2001年 
イヒジョー(伊克昭)・アイマク  鄂爾多斯(オルドス)市」に改編。
        チンギス・ハーン廟の存在により最も神聖で典型的なアイマク。
        漢民族政権に反旗を翻した歴史をもつ。

   2002年4月 
フルンボイル(呼倫貝爾)・アイマク  市への改編を正式発表。
           モンゴル民族発祥の地。

   バヤンノール、オラーンチャブ2つを含め、9つのアイマクのうち6つが市に改編された。
   近隣地域からの無学な農民及び沿海地域からの無節操な商人などを含む漢民族
   による「都市化と近代化」が急速に進むと予想される。
   現存するシリンゴル(錫林郭勒)、アラシャン(阿拉善)、ヒャンガン(興安)3つのアイマク
   ではすでに伝統的な遊牧が禁止され次のターゲットとなっている。
   


    80年代頃から始まった市場化の流れの中で、発展のチャンスに恵まれないまま
     資源が失われてしまい、貧困化も目立ってきた。農業中心の内陸部の「地区」を「市」
     と呼び換え、農民や遊牧民を「市民」にするという行政改革、「撤地設市」の動きは
     少数民族自治区でも画一的に進んでいる。通遼市になったジリーム盟のように、
     モンゴル語の地名が捨てられて少数民族の自治地域かどうか見分けられなくなった
     所もある。 



 
  参照:
南モンゴル人権情報センター

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