- 南モンゴルの独立運動 -

*「南モンゴルの独立運動」は「南モンゴルの歴史」と重複箇所があります。ご了承ください。
年代 独立運動史
1628〜1635年  清の南モンゴル侵略・併合
1911年  辛亥革命により清朝崩壊
 南モンゴルは中華民国の支配下に
1932年  日本・満州(現在の中華人民共和国東北地区及び南モンゴル北東部)に満州国建国
1934年  南モンゴル・チャハル部の王公の子・徳王、百霊廟蒙政会を組織し中華民国に対し、
 完全独立の前段階、高度自治を要求
1936年  日本の支援のもと蒙古軍政府を樹立
1937年  蒙古連盟自治政府樹立。主席に雲王、副主席・徳王
 蒙古連盟自治政府に改称。南モンゴルには同じく日本の支援で察南自治政府・晋北
 自治政府
樹立.
 蒙古連盟、察南、晋北自治政府が連合、
蒙疆連合委員会成立。委員長・徳王
1939年  日本の興亜院蒙疆連絡部・蒙疆軍司令部の下で三自治政府統合。蒙古連合自治
 政府
樹立。徳王・主席、于品卿と夏恭が副主席
1941年  蒙古自治邦と改称し半独立国となる
1945年  日本の敗戦、満州国皇帝退位の詔勅により満州国・蒙古自治邦崩壊
 ソ連軍占領
 その後の南モンゴルは東部に
東蒙古人民自治政府・内蒙古第二自治共和国
 西部に徳王が組織した
蒙古自治準備委員会、蒙古自治政府を樹立
1946年  4月 ソ連より満州が中華民国に返還。八路軍のゲリラ戦活発化
   中国共産党侵攻
1947年  ウランフを長とする内モンゴル自治区人民政府成立
1949年  中華人民共和国成立。徳王ウランバートルに亡命
 内蒙古自治区が作られる
1950年  徳王、ソ連の命令で中国に身柄送還。張家口収容所に収監
1960年
 後半〜70前半
 文化大革命・ウランフ失脚
1963年  徳王釈放
1966年  徳王・内モンゴル自治区フフホト市で逝去
1967年  フフホトに革命委員会成立
1968年  内蒙古人民革命党事件・数万人が迫害を受け、1万6000人以上が殺害される
1969年  内モンゴル生産建設兵団設置(中ソ対立・軍事的緊張)
1981年  内モンゴル民族民主運動 
 南モンゴルで漢民族大量移民に反対する学生運動・数万人が参加
1992年  南モンゴル民主連盟(SMDA)設立
1995年  12月
  南モンゴルのモンゴル人に対する中国政府の圧政に反対して平和的デモと大学におけ
 る学生ストを組織したかどで、ハダ、テクシ両氏およびSMDAのメンバーと支持者70名以
 上を逮捕・拘束。中国当局は同連盟を分離活動に従事する非合法組織と告発。
1996年 12月
 テクシ氏は、政府転覆および国家分離罪で懲役10年の刑、ハダ氏は国家分離および
 スパイ活動罪で15年の刑の判決
1997年  3月
 アメリカで「
内モンゴル人民党」(Inner Mongolian People's Party)設立
 
 5月上旬
 モンゴルの首都ウランバートルで、モンゴル族中国留学生と地元学生のグループが
 中国当局の南モンゴル独立派弾圧に抗議して、中国大使館前でデモを行う。学生ら
 は「五星紅旗」を燃やし独立運動活動家の釈放を要求。
 (中国から米国に留学しているモンゴル族学生の一部が独立を目指す「内モンゴル
 人民党」を結成するなど、海外での独立運動が活発化したため、内モンゴル自治区
 当局は独立派とみられる元留学生を次々と拘束。ウランバートルで学ぶモンゴル族
 留学生がこれに反発し、南モンゴル独立論に同調する地元の学生とともに抗議デモ
 を行う。)
1998年  10月
 ニューヨークで「中国少数民族大会」開催
2000年  アメリカ、ニューヨークにおいて「南モンゴル人権情報センター
  Southern Mongolian Human Rights Infomation Center(SMHRIC)
創設
2002年  12月12日
 南モンゴル民主連盟(SMDA)の前副会長テクシ氏(37)が7年間の服役を終え、フフホト
 市刑務所から釈放。
2004年  10月29日
 チンギス・ハーン廟売却に対してモンゴル人が抗議運動

 午前8時から深夜0時まで、内モンゴル自治区フフホト市の内モンゴル師範大学、内モン
 ゴル大学、モンゴル民族専科大学(「蒙専」)など主な大学に何百人もの武装警官および
 安全(公安)局員が配置され、夜間外出禁令が出された。師範大学の多目的ホールで予
 定されていたモンゴル国の人気バンド「ホルド」のコンサートは、約2000人が集まっていた
 にもかかわらず突然中止となった。
2005年  5月1日
 スウェーデンのストックホルム市において、内モンゴル人民党とスウェーデン・モンゴル
 委員会のメンバーらが、中国による南モンゴル占領58周年をアピールするためデモを行
 う。中国政府の58年におよぶ南モンゴル占領体制を強く非難。

   徳王(De noyon または De wang)
    南モンゴルの独立運動に従事した政治家(1902〜1966年)。
    本名はデムチョクドンロブ(Demchukdongrob、徳穆楚古棟魯布)。
    南蒙古チャハル(Chahar、察哈爾)部西スニト旗の王公の出身で、汎モンゴル主義者。

  
           
    1934年、百霊廟蒙政会を組織し国民政府(中華民国)に対し高度自治を要求するが、
     蒋介石率いる国民政府は南モンゴルの自治を阻害。1939年、日本の援助下に
     
蒙古連合自治政府を樹立、徳王は主席に就任。蒙古連合自治政府は1941年に非公式
     ながら蒙古自治邦と改称、1942年8月、徳王は蒙古自治邦の主席に就任する。
     1949年 北モンゴルで逮捕され中国に送還。
     1950年9月 張家口収容所に収監される。1963年に釈放後、内モンゴル自治区文史館
     に勤務した。
  • 1902年(明治35年) 部族の王子に生まれる。
  • 1936年(昭和11年)1月 察境蒙政会副委員長。
  • 1936年(昭和11年)5月 蒙古軍政府秘書長。
  • 1937年(昭和12年)10月 蒙古連盟自治政府副主席。
  • 1938年(昭和13年)7月 蒙古連盟自治政府主席。
  • 1939年(昭和14年)9月 蒙古連合自治政府主席。
  • 1942年(昭和17年)8月 蒙古自治邦主席。
  • 1949年(昭和24年)4月 蒙古自治準備委員会主任委員。
  • 1949年(昭和24年)8月 蒙古自治政府主席。
  • 1949年(昭和24年)12月 モンゴル人民共和国で逮捕される。
  • 1950年(昭和25年)9月 張家口収容所へ収監。
  • 1963年(昭和38年) 釈放される。
  • 1966年(昭和41年) 中国内モンゴル自治区フフホト市にて逝去。
  蒙疆連合自治政府
     1939年に南蒙古に樹立された政府。関東軍の支援を受けたデムチュクドンロブ(徳王)が
    1939年に樹立した。
    1945年には内蒙古人民共和国に発展した。その後、中国共産党の侵攻を受け、中華人民
    共和国の一部(内蒙古自治区)に編入される。


中華人民共和国編入後

  (略)
「1947年、中国政府はモンゴル人の意志に反し、内モンゴル自治区を成立させました。
    それ以来、内モンゴルのモンゴル人は、民族としての参政権、公民権など個人の人権が
    奪われてきたのです。
    半世紀以上にわたり、内モンゴルのモンゴル人は民族史における最も恐ろしい事件を
    目撃することになりました。それらは、罪なき市民の大量殺戮、宗教施設の完全な破壊、
    モンゴルの文化と伝統を滅亡の縁に追いやる計画的、強制的な同化政策、草原の壊滅的
    な破壊などです。」
以下略    (合州国議会中国委員会でのIMPP代表による演説)
 
  内蒙古人民革命党冤罪事件
   1968年に発生し、34万6千名が迫害を受け、1万6222名が殺害された。この冤罪事件は
    死者の多いこと、「毛沢東思想学習班」の名において拷問が行われたことなど、文革期の
    冤罪事件の中でもきわだっている。

 祝東力著「康生与内人民党冤案」序文からの引用

    1980年11月2日、中華人民共和国最高人民検察院特別検察庁は林彪、江青反革命集団に
    対する起訴状の第28条で「康生らはいわゆる‘内人党’を摘発するという名目で、内蒙古で広大
    な幹部・群集を誣告迫害し、民族の団結を破壊した」「康生、謝富治の唆使のもと、内蒙古自治区
    では‘内人党’などの冤罪により、34万6千余名の幹部・群集が誣告迫害に遭い、1万6222名が
    迫害致死した。」と指摘した。

    1981年1月25日林彪、江青反革命集団を判決する中華人民共和国最高人民法院特別法廷の
    判決文で「康生、謝富治の煽動により、いわゆる‘内蒙古人民革命党’冤罪事件で惨重な結果を
    生み、多くの幹部や群集が迫害で死に、または重度の身体障害となった。」と判定した。
                                          参照:文化大革命期間文学研究

                            
  内モンゴル民族民主運動
   1981年、文化大革命後、初めて行われた大規模学生運動。
    直接の原因は1981年7月16日、中国共産党書記処第111次会議で通過した党の決意文書。
    第二八号決意文書-「中国共産党書記処の内モンゴル自治区工作に関する紀要」(内陸の漢民族
    地域から南モンゴル地域へと土地を失った大量の農民を移民させる事を正当化するもの)。
    
    学生が中心となり数万人規模の民主運動を展開。
    文化大革命後、初めて少数民族から大漢民族体制に反発する活動の扉を開いた。
     

  南モンゴル人権情報センター
  Southern Mongolian Human Rights Infomation Center(SMHRIC)
   2000年、アメリカ・ニューヨークにおいて創設。
   南モンゴルの基本的人権・先住権・少数民族の権利・市民権・国政参与権をめざして活動する団体。
   南モンゴルの人権と民主主義の促進。民主的な政治システムの確立をめざす。
   南モンゴルの民族問題、文化・環境問題、人権問題の状況を英語・日本語・中国語で世界にむけて
   情報発信している

  南モンゴル民主連盟(SMDA)
    
1992年南モンゴルにおいてハダ氏(Hada)、テクシ氏及びモンゴル人学生・文化人らにより設立された。
    SMDAの目標は、南モンゴルのモンゴル語と歴史・文化の振興と保存及び中華人民共和国憲法に
    よって守られた地域民族自治権を拡大する平和的方法を見出すこと。
    モンゴル人の公民権・参政権の獲得。

 
  内モンゴル人民党the Inner Mongolian People's Party
    中華人民共和国内モンゴル自治区に活動基盤を置く分離独立運動組織。
    1997年アメリカ合衆国・プリンストンにて創設。
    文化大革命中のモンゴル人に対する中国政府の虐待行為を論拠として、南モンゴルにモンゴル人の
    独立国家創設を目標としている。

 
  チンギス・ハーン廟
     南モンゴル西部・オルドス地方にあるチンギス・ハーン廟は、モンゴル人の民族アイデンティティの
    象徴として、ダルハドによって何百年もの間管理されてきた神聖な場所。
    地元政府は莫大な借金の返済のために同廟を漢人系の東聯社Dong Lian Companyに売却する決定
    を下した。同社の社長で漢人ビジネスマン侯Hou氏は、より多くの観光客を呼び込み、大きな利益を
    上げるため「第二チンギス・ハーン廟」と呼ばれる大廟を建設、現存の廟を取り壊す計画をたてている。


  ハダ(Hada)
    南モンゴル民主連盟(SMDA)代表
       
1955年  11月29日 モンゴル人の家庭に生まれる
1981年前半    南モンゴルの学生運動において、活動熱心な運動家になる
1983年  大学卒業後、モンゴル語で政治理論に関する数多くの記事を発表
1986年  内モンゴル師範大学の研究生となる
      妻のシンナ(Xinna)とともに内モンゴルの省都のフフホトにモンゴルの学術書店を開店
1992年  5月
 同志のTegexiとモンゴル文化救援委員会(Mongolian Culture Rescue Committee)のちに
 南モンゴル民主連合Southern Mongolian Democratic Alliance に改名を設立。
 ハダは代表に選出
1994年  南モンゴル民主連盟「南モンゴルの声」出版
1995年  「漢民族による植民地支配に反対し、南モンゴルにおける民族自決・自由・民主主義を
 求めて闘う」という連合の主要な使命を概説した新憲法起草。
1995年  12月10日 
 ハダの自宅は内モンゴル公安局から来た警察によって捜索を受け、彼らはハダが手紙を
 交換している100名以上の国際的な学者の名前と住所が書かれた書類など、連合に関す
 る数多くの書類が押収される。
 この翌日、当局はハダを拘束、連合の活動について彼に数多くの尋問を行った。
 彼は1996年3月9日に正式に逮捕された。
1996年  8月19日
 フフホト人民検察局はハダに対して「スパイ活動」「分離主義活動」「敵への機密漏洩」
 「反革命的な武将集団の組織」という容疑で正式に告発。


 11月11日 
 非公式の審問の後、フフホト中級人民法院はハダに「分離主義活動」での懲役12年と
 「スパイ活動」での懲役10年を結合し、懲役15年とその後4年間の政治的権利の剥奪という
 判決を下される。
 ハダの内モンゴル上級法院への控訴は拒否される。Tegexiは「分離主義活動」の罪で禁固
 10年と3年間の政治的権利の剥奪という判決が下された。

2002年  12月初め
  テクシ氏「(刑務所内での)善行」を理由に釈放。
 (ハダ氏夫人シンナによれば、テクシ氏は刑期より3年早く釈放されたが、現在、外部との
  接触は禁止されており、友人も親戚も彼と会うことを許されない。
  彼の最近の生活や健康状態に関する情報はない。)
  

     

*
ハダ氏夫人シンナによれば、ハダ氏は看守から持続的な虐待をうけ、肉体的に苦しんでいるといいます。
 シンナ夫人も「ボイス・オブ・アメリカ」や「ラジオ・フリー・アジア」などの外国メディアのインタビューを受け
 たため何度も逮捕されています。
 ハダ氏らの所有していた書店は閉鎖され、シンナ夫人と息子のウイルスは生活手段を奪われました。
 2001年、16歳のウイルスは、明確な説明のないまま学校を退学処分になりました。2001年12月下旬、
 ウイルスは強盗容疑で逮捕され、正式な裁判なしで禁固刑2年の判決をうけました。シンナ夫人によれば、
 看守がウイルスを何度もなぐったそうです。


*モンゴル族の政治囚・ハダは刑務所内で拷問に晒されるhttp://www.smhric.org/jap_56.htm

    
    内モンゴル・赤峰市の第四刑務所でハダ氏を撮影した最近の写真
    写真入手は南モンゴル人権情報センター


(参照:
南モンゴル人権情報センター・infogogo・Wikipedia他


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