中国共産党は、結党直後かつて清朝の支配下にあった諸民族の「民族自決権」を認めていた。
1931年、江西省で樹立した「中華ソビエト共和国」は、チベットを含めた諸民族に対し、「民主的な自治邦」
を樹立し、「自由に中華連邦に加入し、または脱退出来る」と規定する憲法を制定するなど、高度な自立
性を認めていたが、1949年の「中華人民共和国」建国以降は「チベットは中国の不可分の一部分」という
主張に転じ、今に至っている。
東西冷戦に加え、文化大革命が行われていた時期は中国とチベット側にまったく交渉はなかった。
1970年代末以降接触が再開、チベット側は中国にも受け入れやすいよう、「完全なる独立」を取り下げ、
「中国主権下の完全な自治」・「チベット全域を単位としたチベット人の自治行政単位の設定」などの主旨
で妥協する提案を何度か行っているが、中国側はこれを「形を変えた独立の主張」だとして拒否。交渉
は停頓状態にある。
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チベット独立運動史 |
1911年 |
辛亥革命、チベットにおける満州人の支配崩壊 |
1913年 |
ダライラマ13世、チベット独立宣言 |
1933年 |
ダライラマ13世死去 |
1939年 |
ダライラマ14世即位(1935〜) |
共産中国のチベット侵入 |
1949年 |
・中華人民共和国成立
8月 中国国民党政府、パンチェン・ラマ6世の転生者を認定 |
1950年 |
・人民解放軍、東チベットのチャムド占領
11月 チベット政府「共産中国による侵略」を国連に提訴
・国民議会、ダライ・ラマ14世に全権委託 |
1951年 |
5月 中国、軍事的侵略の威嚇の下に、ンガボ・ンガワン・ジグメら代表団に北京で悪名高い
「チベット平和的解放のための措置」に関する17ヶ条協定」への署名を強要
10月 中国人民解放軍、ラサ進駐 |
1954年 |
ダライ・ラマとパンチェン・ラマ「第1回全国人民代表大会」に出席。毛沢東、周恩来らと会見 |
1955年 |
3月 北京政府、チベット政府に代わる「西蔵自治区準備委員会」の設立を提案
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1956年 |
・東チベットでゲリラによる中国への抵抗運動が高まる。中国により、東および北チベットの僧院は
ほとんど破壊される。
4月 「西蔵自治区準備委員会」発足
11月 ダライ・ラマ法王、インド釈尊入滅2500年記念祭ブッダ・ジャヤンティに出席
・ネール首相と亡命の可能性について協議したものの、周恩来中国首相がチベット情勢の悪化を
食い止めると約束したため、説得に応じて帰国 |
1957年 |
2月 中国共産党当局「チベットの土地改革は6年間延期されるであろう」と発表
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1959年 |
3月 ラサでチベット民族蜂起。中国はチベット人87,000人を殺害して蜂起を鎮圧
ダライ・ラマ14世とともに80,000人のチベット人がインドに亡命
・恩来首相、チベット政府の解散を宣言
4月 ダライ・ラマ、インド北東のアッサム州テズプールに到着。「17ヶ条協定」は「武力威嚇によって
チベット政府と民衆に押しつけられたものだ」として拒否
・ダライ・ラマ、北インドの山岳部ムスーリでチベット亡命政府を再樹立。「私の政府とともに私がどこ
にいようと、チベットの民衆はわれわれをチベット政府と認める」と宣言
8月 中国、インド・チベット国境に人民解放軍部隊を配備。インドも北部国境の軍備を強化
10月 国連総会が「チベットの基本的人権と特有の文化および宗教生活の尊重」を要請する最初の
決議(1353XIV号)を採択 |
1960年 |
・ ダライ・ラマ14世、インドにチベット亡命政府を設立
1月 中国のチベット支配に対し非公式で武力抵抗を続けるための地下ゲリラ基地がネパールの
ムスタンに設置される
2月 南インドのマイソール付近の森林地域にあるバイラクッペで最初のチベット人農業入植地を
建設。 ※今日ではインド、ネパール、ブータンにおける入植地と福祉事務所は54カ所に上る
4月 チベット亡命政府がインド北西部ダラムサラに移動
6月 国際法律家委員会が初めてチベット問題に関する報告書をまとめ、中国が「チベット人の残虐
な殺害」を行い、51年の17ヶ条協定を組織的に無視していると批判
8月 国際法律家委員会がチベット問題で第2号報告書を発表「宗教的集団としてのチベット人を破壊
しようとして、虐殺行為が行われている」と指摘
9月 チベット人民代議委員会(チベット亡命議会)設立、後にチベット国民代議員大会と改称 |
1961年 |
12月 国連総会がチベット問題に関する決議第2号を採択し、チベット人に自決権を認める |
1962年 |
11月 「チベット自治区(TAR)」の僧院と尼僧院の97%、TAR以外のチベット地域の僧院と
尼僧院の98〜99%が無人化ないし廃墟化
・後にチベット亡命政府の宗教・文化省が集計したところでは、全チベットの6259カ所の僧院、
尼僧院のうち、破壊を免れたのは8カ所だけだった |
1963年 |
5月 中国人科学者、水爆設計作業のためアムド入り
・ダライ・ラマ、将来のチベットのための民主憲法を交付 |
1964年 |
5月 パンチェン・ラマ10世、ダライ・ラマ支持の演説をしたためラサで逮捕・投獄
8月 ラサでチベット人学生10,000人が中国の政策に反対してデモ |
1965年 |
・チベット自治区人民政府成立
12月 国連総会がチベット問題に関する第3の決議(2079号)を採択し「チベット人が常に享受してい
た人権と基本的自由をチベット人から奪うあらゆる行為の停止」を改めて要請 |
1966年 |
・紅衛兵ラサ進駐開始、
8月 文化大革命チベットに波及。中国によるチベットの弾圧・破壊・チベットの多くの僧たちが
批判集会に引きずり出され、拷問迫害を受ける |
1970年 |
10月 亡命チベット人の最大の非政府政治組織であるチベット青年会議(TYC)がダラムサラに本部
設置 |
1971年 |
1月 中国、チベット北東部アムド州のツァイダム盆地に初めて核兵器を配備 |
1975年 |
米国CIA、ムスタンのチベット・ゲリラ基地閉鎖 |
1976年 |
1月 周恩来、没
9月 毛沢東、没 |
1977年 |
中国、ダライラマの帰国呼びかけ |
1979年 |
7月 ケ小平、チベット解放政策を発表
ケ小平は、ダライ・ラマの兄、ギャロ・ トゥンドゥップを招き、「完全な独立は別として、他の全て
の問題は論議され、解決される」と告げる
8月 カロン・ジュチェン・トゥプテン・ナムギャル率いるチベット亡命政府の第一次使節団がチベット
視察を開始 |
1983年 |
和平会談最終決裂 |
1984年 |
6月 チベット亡命政府、中国による侵略及び占拠の直接の結果として、120万人のチベット人
の死亡を発表 |
1986年 |
ラサなど対外開放、外国人の訪問可能となる |
1987年 |
9月 ダライ・ラマ、米議会の人権会議で演説し、中国政府との交渉によってチベット問題の解決を
図るための「五項目和平プラン」を提案
ラサのデプン僧院でデモ
10月 ラサのセラ僧院でデモ。中国支配に反対する2つの大規模デモが勃発し、国際的に報道
される |
1988年 |
3月 ラサで大規模なデモ
・胡錦濤、自治区党委書記就任(〜1992年)
6月 ダライ・ラマ、欧州議会で「ストラスブール提案」を発表。この中でチベット3州を統合し、真の
自治を享受するが、チベットの防衛、外交については引き続き中国が担当することができると
提案
11月 胡錦涛が中国共産党チベット自治区党委員会書記に就任 |
1989年 |
1月 パンチェン・ラマ10世、シガツエ訪問中に謎の死
・死の数日前、パンチェン・ラマは声明で中国のチベット支配は利益よりも多くの害をもたらし
たと指摘。中国政府を糾弾する演説をしていた。中国は会談の約束を反古にする。
3月 ラサで大規模抗議デモを受けて、中国がチベットに戒厳令を宣言
中国当局による取締り激化
10月 ダライラマ14世、ノーベル平和賞受賞 |
1990年 |
4月 中国、チベットへの戒厳令を解除
5月 ダライ・ラマ、亡命政府の全面的な民主的改革を行い、選挙によって選ばれたチベット国民
代議員大会に政府閣僚を選任する権限を付与 |
1991年 |
6月 チベット人民議会、チベット亡命政府のための新たな民主憲法を採択。これは亡命チベット
憲章として知られ、国連人権宣言に大幅に依拠した
8月 国連の少数民族差別保護と差別撤退のための小委員会は「チベット情勢」決議を採択し、
「チベット人特有の文化的、宗教的、民族的アイデンティティーを脅かす人権と自由の侵害に
関する情報が相次いでいること」への懸念を表明
10月 ブッシュ米大統領、チベットが支配下にある国と宣言する議会決議に署名 |
1992年 |
2月 ダライ・ラマ、「将来におけるチベットの政治形態の指針と憲法の基本要点」を発表
*この中でダライ・ラマは、将来の自由なチベットにおいては、選挙によって選ばれた政府のために、
権限を放棄すると述べ、チベットが自由を回復した時にはチベット亡命政府は解散することを明示 |
1995年 |
5月 チベットの6歳のゲドゥン・チューキ・ニマ少年をパンチェン・ラマ10世の転生者と認定
・中国、ニマ少年を連行し、ギャルツェン・ノルブ少年をパンチェン・ラマ11世として認定
今現在、ニマ少年と両親の所在は不明 |
1996年 |
4月 ・中国、チベットで愛国的再教育と精神的文明化キャンペーンを開始
*これらのキャンペーンは、チベット人を威嚇して、ダライ・ラマへの信仰を放棄させることが狙いで
あり、特に僧院や尼僧院が標的とされた |
1997年 |
5月 ダライ・ラマ、台湾を訪問。李登輝総統と会談
10月 米政府が国務省にチベット問題を担当する新たなポストを設け、グレッグ・クレイグがチベット
問題に関する初代の特別調整官に任命される
12月 国際法律家委員会、チベット問題に関する第3号報告を発表し、「チベットにおける抑圧が
一層、エスカレートした」と指摘
・ICJは国連総会が59年と61年、65年の決議に基づいて議論を再開することや国連人権委員会が
チベットの人権状況を調査するために特別報告者を任命すること、国連事務総長がチベット問題
の平和的解決とチベット人の意思を確認するための国連が監視する住民投票を推進するための
特使を任命することを勧告 |
1998年 |
3月 チベット青年会議のメンバー6人が、ICJの97年報告の勧告を履行するよう国連に圧力をかけ
るため、ニューデリーで死に至る断食を決行。*デリー警察が断食を阻止
5月 ラサのダプチ刑務所でデモ
・チベット青年会議の支持者ツプテン・ンゴドゥプが焼身自殺。
・国連人権問題高等弁務官メアリー・ロビンソン、チベット訪問 |
1999年 |
3月 チベット青年会議のメンバー3人が、チベットにおける人権状況に関する対中国非難決議を
採択するよう国連人権委員会に圧力を掛けるため、ジュネーブで死に至る断食を決行
*ハンストは26日目に国連と諸国政府の要請で中止。チベットの状況に関して評価が行われる
との公式の保証が与えられた |