- チベットの独立運動 -

   中国の占領と弾圧の政策は、チベットの国家としての独立、文化、宗教性、自然環境の破壊を引
   起
こし、人々は基本的な人権まで奪われている。再三再四、国際法を犯す中国のこれらの破壊行為
   は、注目はされているが、未だに罰されることなく繰り返されている。



  「私たちの最終目的は、チベットが文字通り自治を行うことです。私が言うチベットの自治とは、チベット
  の文化と環境が中華人民共和国内で保護されることが完全に保障されることを指しています。もちろん、
  目的を達成するのは容易ではありません。
(中略)
  残念なことに共産主義の統制下ではたびたび事実が歪められ、偽りの事実に基づいた政策がまかり通
  っているのが現状です。チベット問題は、1950年代から中国政府が真実の欠如した新しい事実を作り
  上げてきたことが原因と言えます。歪んだ事実から生まれた政策が今なお在る、それが問題なのです。」
   ダライ・ラマ インタビュー『ダライ・ラマ 中国の前提条件に対し、立場を表明』
   2003年9月11日 ボイス・オブ・アメリカ


  1949年、人民解放軍はチベット東部に侵攻した。中国の「第18集団軍」は50年の春、東部のダルツェンド
    (康定)、および北東部のアムドを経由してチベットに侵入した。また、「第14師団」は、チベット南東部の
    デチェン(迪慶)経由で侵入を遂げた。カムとアムドを占領した後、「第18集団軍」の先進隊は、51年9月9日
    にラサへと侵攻し、続く10月26日には同部隊の主力戦力がラサを手中に収めた。
  
  独立国家チベットは、中国の侵略で、戦闘によって人命損失の危機にさらされ、続いてすぐに、共産主義
    イデオロギーと文化大革命(1967- 1976)に代表されるような計画によって、普遍的な自由さえも失ってしま
    った。
現在でも、チベット固有の国民性、文化、宗教の独自性は、中国によって深刻な脅威にさらされ、翻弄
    され続けている。


  中国共産党は、結党直後かつて清朝の支配下にあった諸民族の「民族自決権」を認めていた。
    1931年、江西省で樹立した「中華ソビエト共和国」は、チベットを含めた諸民族に対し、
「民主的な自治邦」
    を樹立し、「自由に中華連邦に加入し、または脱退出来る」と規定する憲法を制定するなど、高度な自立
    性を認めていたが、1949年の「中華人民共和国」建国以降は「チベットは中国の不可分の一部分」という
    主張に転じ、今に至っている。


    東西冷戦に加え、文化大革命が行われていた時期は中国とチベット側にまったく交渉はなかった。
    1970年代末以降接触が再開、チベット側は中国にも受け入れやすいよう、「完全なる独立」を取り下げ、
    「中国主権下の完全な自治」・「チベット全域を単位としたチベット人の自治行政単位の設定」などの主旨
    で妥協する提案を何度か行っているが、中国側はこれを「形を変えた独立の主張」だとして拒否。交渉
    は停頓状態にある。

チベット独立運動史
1911年 辛亥革命、チベットにおける満州人の支配崩壊
1913年 ダライラマ13世、チベット独立宣言
1933年 ダライラマ13世死去
1939年 ダライラマ14世即位(1935〜)
共産中国のチベット侵入
1949年 中華人民共和国成立 

 8月 中国国民党政府、パンチェン・ラマ6世の転生者を認定
1950年 ・人民解放軍、東チベットのチャムド占領

11月 チベット政府「共産中国による侵略」を国連に提訴

国民議会、ダライ・ラマ14世に全権委託
1951年   5月 中国、軍事的侵略の威嚇の下に、ンガボ・ンガワン・ジグメら代表団に北京で悪名高い
   「チベット平和的解放のための措置」に関する17ヶ条協定」への署名を強要

10月 
中国人民解放軍、ラサ進駐
1954年 ダライ・ラマとパンチェン・ラマ「第1回全国人民代表大会」に出席。毛沢東、周恩来らと会見
1955年  3月 北京政府、チベット政府に代わる「西蔵自治区準備委員会」の設立を提案
1956年 ・東チベットでゲリラによる中国への抵抗運動が高まる。中国により、東および北チベットの僧院は
 ほとんど破壊される。

 4月 「西蔵自治区準備委員会」発足

11月 ダライ・ラマ法王、インド釈尊入滅2500年記念祭ブッダ・ジャヤンティに出席

・ネール首相と亡命の可能性について協議したものの、周恩来中国首相がチベット情勢の悪化を
 食い止めると約束したため、説得に応じて帰国
1957年 2月 中国共産党当局「チベットの土地改革は6年間延期されるであろう」と発表
1959年   3月 サでチベット民族蜂起。中国はチベット人87,000人を殺害して蜂起を鎮圧
  ダライ・ラマ14世とともに80,000人のチベット人がインドに亡命

恩来首相、チベット政府の解散を宣言

 4月 ダライ・ラマ、インド北東のアッサム州テズプールに到着。「17ヶ条協定」は「武力威嚇によって
    チベット政府と民衆に押しつけられたものだ」として拒否

・ダライ・ラマ、北インドの山岳部ムスーリでチベット亡命政府を再樹立。「私の政府とともに私がどこ
 にいようと、チベットの民衆はわれわれをチベット政府と認める」と宣言

 8月 中国、インド・チベット国境に人民解放軍部隊を配備。インドも北部国境の軍備を強化

10月 国連総会が「チベットの基本的人権と特有の文化および宗教生活の尊重」を要請する最初の
    決議(1353XIV号)を採択
1960年 ダライ・ラマ14世、インドにチベット亡命政府を設立

1月 中国のチベット支配に対し非公式で武力抵抗を続けるための地下ゲリラ基地がネパールの
   ムスタンに設置される

2月 南インドのマイソール付近の森林地域にあるバイラクッペで最初のチベット人農業入植地を
   建設。 ※今日ではインド、ネパール、ブータンにおける入植地と福祉事務所は54カ所に上る

4月 チベット亡命政府がインド北西部ダラムサラに移動

6月 国際法律家委員会が初めてチベット問題に関する報告書をまとめ、中国が「チベット人の残虐
   な殺害」を行い、51年の17ヶ条協定を組織的に無視していると批判

8月 国際法律家委員会がチベット問題で第2号報告書を発表「宗教的集団としてのチベット人を破壊
   しようとして、虐殺行為が行われている」と指摘

9月 チベット人民代議委員会(チベット亡命議会)設立、後にチベット国民代議員大会と改称
1961年 12月 国連総会がチベット問題に関する決議第2号を採択し、チベット人に自決権を認める
1962年 11月 「チベット自治区(TAR)」の僧院と尼僧院の97%、TAR以外のチベット地域の僧院と
   尼僧院の98〜99%が無人化ないし廃墟化

・後にチベット亡命政府の宗教・文化省が集計したところでは、全チベットの6259カ所の僧院、
  尼僧院のうち、破壊を免れたのは8カ所だけだった
1963年 5月 中国人科学者、水爆設計作業のためアムド入り

・ダライ・ラマ、将来のチベットのための民主憲法を交付
1964年 5月 パンチェン・ラマ10世、ダライ・ラマ支持の演をしたためラサで逮捕・投獄

8月 
ラサでチベット人学生10,000人が中国の政策に反対してデモ
1965年 チベット自治区人民政府成立

12月 国連総会がチベット問題に関する第3の決議(2079号)を採択し「チベット人が常に享受してい
    た人権と基本的自由をチベット人から奪うあらゆる行為の停止」を改めて要請
1966年  ・紅衛兵ラサ進駐開始、

8月 
文化大革命チベットに波及。中国によるチベットの弾圧・破壊・チベットの多くの僧たちが
   批判集会に引きずり出され、拷問迫害を受ける
1970年 10月 亡命チベット人の最大の非政府政治組織であるチベット青年会議(TYC)がダラムサラに本部
    設置
1971年 1月 中国、チベット北東部アムド州のツァイダム盆地に初めて核兵器を配備
1975年 米国CIA、ムスタンのチベット・ゲリラ基地閉鎖
1976年 1月 周恩来、没

9月 毛沢東、没
1977年 中国、ダライラマの帰国呼びかけ
1979年 7月 ケ小平、チベット解放政策を発表
  
ケ小平は、ダライ・ラマの兄、ギャロ・ トゥンドゥップを招き、「完全な独立は別として、他の全て
  の問題は論議され、解決される」と告げる

8月 カロン・ジュチェン・トゥプテン・ナムギャル率いるチベット亡命政府の第一次使節団がチベット
   視察を開始
1983年 和平会談最終決裂
1984年 6月 チベット亡命政府、中国による侵略及び占拠の直接の結果として、120万人のチベット人
   の死亡
を発表
1986年 ラサなど対外開放、外国人の訪問可能となる
1987年  9月 ダライ・ラマ、米議会の人権会議で演説し、中国政府との交渉によってチベット問題の解決を
     図るための「五項目和平プラン」を提案

   
ラサのデプン僧院でデモ

10月 
ラサのセラ僧院でデモ。中国支配に反対する2つの大規模デモが勃発し、国際的に報道
     される
1988年  3月 ラサで大規模なデモ

・胡錦濤、自治区党委書記就任(〜1992年)

 6月 ダライ・ラマ、欧州議会で「ストラスブール提案」を発表。この中でチベット3州を統合し、真の
   自治を享受するが、チベットの防衛、外交については引き続き中国が担当することができると
   提案


11月 胡錦涛が中国共産党チベット自治区党委員会書記に就任
1989年  1月 パンチェン・ラマ10世、シガツエ訪問中に謎の死
   ・
死の数日前、パンチェン・ラマは声明で中国のチベット支配は利益よりも多くの害をもたらし
    たと指摘。中国政府を糾弾する演説をしていた。中国は会談の約束を反古にする。

 
3月 ラサで大規模抗議デモを受けて、中国がチベットに戒厳令を宣言
     中国当局による取締り激化

10月 ダライラマ14世、ノーベル平和賞受賞
1990年 4月 中国、チベットへの戒厳令を解除

5月 ダライ・ラマ、亡命政府の全面的な民主的改革を行い、選挙によって選ばれたチベット国民
   代議員大会に政府閣僚を選任する権限を付与
1991年  6月 チベット人民議会、チベット亡命政府のための新たな民主憲法を採択。これは亡命チベット
    憲章として知られ、国連人権宣言に大幅に依拠した

 8月 国連の少数民族差別保護と差別撤退のための小委員会は「チベット情勢」決議を採択し、
    「チベット人特有の文化的、宗教的、民族的アイデンティティーを脅かす人権と自由の侵害に
    関する情報が相次いでいること」への懸念を表明

10月 ブッシュ米大統領、チベットが支配下にある国と宣言する議会決議に署名
1992年 2月 ダライ・ラマ、「将来におけるチベットの政治形態の指針と憲法の基本要点」を発表
*この中でダライ・ラマは、将来の自由なチベットにおいては、選挙によって選ばれた政府のために、
 権限を放棄すると述べ、チベットが自由を回復した時にはチベット亡命政府は解散することを明示
1995年 5月 チベットの6歳のゲドゥン・チューキ・ニマ少年をパンチェン・ラマ10世の転生者と認定
・中国、ニマ少年を連行し、ギャルツェン・ノルブ少年をパンチェン・ラマ11世として認定
 今現在、ニマ少年と両親の所在は不明
1996年 4月 ・中国、チベットで愛国的再教育と精神的文明化キャンペーンを開始
*これらのキャンペーンは、チベット人を威嚇して、ダライ・ラマへの信仰を放棄させることが狙いで
 あり、特に僧院や尼僧院が標的とされた
1997年  5月 ダライ・ラマ、台湾を訪問。李登輝総統と会談

10月 米政府が国務省にチベット問題を担当する新たなポストを設け、グレッグ・クレイグがチベット
    問題に関する初代の特別調整官に任命される

12月 国際法律家委員会、チベット問題に関する第3号報告を発表し、「チベットにおける抑圧が
    一層、エスカレートした」と指摘

・ICJは国連総会が59年と61年、65年の決議に基づいて議論を再開することや国連人権委員会が
 チベットの人権状況を調査するために特別報告者を任命すること、国連事務総長がチベット問題
 の平和的解決とチベット人の意思を確認するための国連が監視する住民投票を推進するための
 特使を任命することを勧告
1998年 3月 チベット青年会議のメンバー6人が、ICJの97年報告の勧告を履行するよう国連に圧力をかけ
   るため、ニューデリーで死に至る断食を決行。*デリー警察が断食を阻止

5月
ラサのダプチ刑務所でデモ
・チベット青年会議の支持者ツプテン・ンゴドゥプが焼身自殺。
・国連人権問題高等弁務官メアリー・ロビンソン、チベット訪問
1999年 3月 チベット青年会議のメンバー3人が、チベットにおける人権状況に関する対中国非難決議を
   採択するよう国連人権委員会に圧力を掛けるため、ジュネーブで死に至る断食を決行
   *ハンストは26日目に国連と諸国政府の要請で中止。チベットの状況に関して評価が行われる
   との公式の保証が与えられた

 
  十七ヵ条協定
   1951年、中華人民共和国政府とチベット政府「ガンデンポタン」の間で締結された協定。
   「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」(「十七か条協定」)。
チベット全域が中華
   人民共和国の実効統治下に組み入れられた。十七か条協定は交渉当事者としてのガンデンポタンを「西蔵
   地方政府」と呼称している。この協定は、チベット国そのものの独立性を否定するとともに、ガンデンポタン
   による全チベットの統合をも拒否し、チベットの一部分「西蔵」の統治機関としての地位しか認めないことを
   打ち出すものであった。


   この協定では、ひき続き
ガンデンポタンによる「西蔵」統治(ダライ・ラマが、宗教と政治の両方の指導者と
   して戴く体制)の継続をみとめ、「西蔵」においては「改革を強要しない」ことを明示するもの
であったが、
   「西蔵」の領域の外部におかれたチベット東北部のアムド地方(青海省、甘粛省西南部、四川省西北部)、
   チベット東部のカム地方東部(四川省西部、雲南省西北部)などでは、1955年、「民主改革」・「社会主義
   改造」が開始された。

   清末以来、反清、反中闘争を続けてきたこの地方の人々は、1956年より武装蜂起を開始。一時的には
    中国の軍事警察機関の一掃に成功する。しかし中国軍はただちに反撃を開始し、占領地で過酷な弾圧
    と大虐殺を展開。戦火を避ける民衆や敗走する抗中ゲリラたちは、雪崩をうって、まだガンデンポタンの
    統治下で平穏を保っていた「西蔵」へ逃げ込んだ。

    カム地方出身の抗中ゲリラたちは、この地で初めて統一組織「チュシガンドゥク」を結成、1957年からは
    米国CIAの支援もうけ、故郷奪回に乗り出す力はなかったので、「西蔵」内の各地で中国軍の駐屯地や
    行政機関を襲撃する武力活動を展開した。

   情勢の悪化に対し、ガンデンポタンは、抗中ゲリラによる政府保有の武器や食料の提供要求を拒否する
    など、十七か条協定の枠組みを維持することで、かろうじて確保された「自治」を守ろうとつとめた。

  1950年代半ばから、「民主改革」「社会主義改造」が、チベット社会の独自性を無視して一挙に強要される
    こととなった。「改革」による攻撃の矛先が寺院・僧侶に向かった段階で、チベット人の反発は一挙に民衆
    レベルにまで拡大、「チベット動乱」が勃発した。


  チベット民族蜂起(チベット動乱・ラサ蜂起)
    中華人民共和国政府のチベット支配に対し、アムド地方、カム地方における「民主改革」「社会主義改造」
    の強要をきっかけとして1956年に勃発、1959年に頂点に達したチベット人の抗中運動。

    蜂起の当初は、中国の統治機構をアムド・カムのほとんどから一時的に一掃する勢いであったが、中国軍
    の強力な反撃が組織され、各地の蜂起軍は大量の難民とともに、西藏地方に逃れた。蜂起軍は西藏に
    おいて統一抗中組織「チュシ・ガンドゥク」を結成、中国に対する組織的なゲリラ活動に踏み出した。
    争乱は1959年にラサに波及。


   
 1959年3月10日、中国軍のダライラマ14世に対する観劇招待を、ダライラマ拉致の口実と疑ったラサ市民
    が夏の宮殿ノルブリンカ前に集結。法王の身を案じたラサ市民が一斉蜂起。中国軍は群衆に対する砲撃
    を開始。法王は中国軍の撤退とチベットの主権、独立を訴えたが、
中国側はさらに徹底的な容赦無き弾圧
    を加える中、ついに法王は国外亡命を余儀なくされる。

  
 中国はチベット人87,000人を殺害して蜂起を鎮圧。
  

   「磔、生体解剖、腹を裂き内臓を暴き出す、手足の切断などざらであり、打ち首、焙り殺し、撲殺、
   生き埋め、馬で引きずり回して殺したり、逆さ吊り、手足を縛って凍った水に投げ込み殺すといった
   残虐さは枚挙にいとまがなかった。処刑の最中に「ダライ・ラマ万歳」と叫べないよう舌を引き抜い
   たりもした。」
ダライ・ラマ法王が著した1959年3月10日 FREEDOM IN EXILE「ダライ・ラマ自伝」より
    
  ダライラマ14世は、国境を越える直前、
「チベット臨時政府」の樹立を宣言し、インドへと亡命した。

    法王の後に続いて、約10万人のチベット人たちが祖国を離れ、インドやネパールなどへ亡命した。
    チベット動乱以降、最高指導者ダライ・ラマ14世、政府ガンデンポタンのメンバーらをはじめ多くの僧侶や
    一般農牧民たちが亡命し、十数万人から成る亡命チベット人社会を形成するに至る。
    
    中国政府は「チベット政府の廃止」を宣言、西藏地方
を「西藏自治区籌備委員会」の管轄下に置く。
   

  1965年、西蔵自治区が成立。文化大革命期には紅衛兵によって多くの寺院が破壊されるなど、
    文化遺産に深刻な被害が出た。さらに人民公社の導入など、中国との一体化が進んだ。





  参照:
ダライラマ法王日本代表部事務所・Wikipedia他


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