チベットの歴史

  「チベット」とは、地名であるばかりでなく、長い歴史を持った1つの国の名前です。

  チベットは仏教信仰(8世紀に国教と定められた大乗仏教)を価値観の中心に据え、
    ダライ・ラマを指導者に戴く政教一致国家です。
    自然環境に適応した独自の文化を発達させて来ました。
   
 
  チベット民族は、主としてユーラシア大陸中央部のチベット高原上に分布するモンゴロイド系
    の民族です。
  
年代 歴 史
紀元前1万3千年〜
紀元前1万年
中石器時代
629年 ソンツェン・ガンポ大王がチベット統一。吐蕃王国建国(〜842年)
633年 ラサに遷都。吐蕃王朝
670年 唐の安西四鎮を占領、シルクロードを支配。吐蕃王朝
692年  唐、安西四鎮を回復。吐蕃王朝
698年 吐蕃王室、カリンチンを打倒。吐蕃王朝
751年 南詔と同盟。吐蕃王朝
755年 唐の首都・長安に進駐
763年 ティソン・デツェン王(在位755〜797)
チベットの領土を拡張、唐はチベットへ朝貢。
吐蕃王朝
794年 南詔離反。吐蕃王朝
821年 唐、吐蕃と会盟、国境確定と両国の和平を定めた条約を締結(建中の会盟)吐蕃王朝
838年 ランダルマ王、廃仏。吐蕃王朝
841年 ランダルマ王暗殺。吐蕃王朝
842年

ラテン・ダルマ帝が暗殺され、吐蕃王朝分裂
842〜
1630年
グゲ(古格)王国(10世紀〜16世紀)
吐蕃王朝の王族の一部が西チベットで建国
1032年 ゲルセ王家、青唐王国を青海に建国
1207年 モンゴルの間接支配(サキャ派)時代(〜1357)グゲ王国
1240年 チンギス・ハーンの孫にあたるゴダン・ハーンがチベットに遠征隊を派遣。
チベットの指導的高僧サキャ・パンディタ・クンガ・ギェルツェン(1182〜1251)を
幕舎に招く。「寺と壇家の関係」(チュ・ユン)の始まり。
1254年 フビライ・ハーン、謝意にかえてパスパにいくつかの称号を授与。
チベット全土に及ぶ政治権を与える。
 
1350年以降 パクモドゥ派[カギュー派の1分派]1族、チベット統治
1358年 パクモ・ドゥ派時代(1358-1480)
1481年 リンプン派時代(1481-1564)
1481年 実権がリンプン1族に
1565年 ツァン派時代(1565-1577)ツァン地方の王がチベットを統治(1565〜1642)
1578年 ダライラマ3世代(1578-1588)
1589年 ダライラマ4世代(1589-1616)
1617年 ダライラマ5世代(1617-1682)
1637年
ホショト部のトゥルバイフ(グシ・ハン)は、オイラト各部の連合軍を率いて青海地方に
遠征、敵対勢力を制圧。トゥルバイフはラサに上り、ダライ・ラマ5世から
「シャジンバリクチ・ノミン・ハーン(護教王)」の称号を授けられる。
1642年 ガンデンポタン時代
グシ・ハン(在位:1642年〜1654年)。グシ・ハン王朝
ダライ・ラマ政権の発足。
トゥルバイフの子孫は以後四代にわたってチベット・ハン位を継承
1642〜1724年 グシ・ハン王朝
1642〜1654年 グシ・ハン、グシ・ハン王朝
1654〜1668年 ダヤン・ハン、グシ・ハン王朝
1668〜1700年 ダライ・ハン、グシ・ハン王朝
1683年 ダライラマ6世代(1683-1707、)グシ・ハン王朝
1700〜1703年 テンジンワンギャル、グシ・ハン王朝
1703〜1717年 ラサン=ハン、グシ・ハン王朝
1708年 ダライラマ7世代(1708-1757)、グシ・ハン王朝
1717年 ジュンガルの侵攻を受けて、直系が絶える。
グシ・ハン王朝
18世紀初頭
ダライラマの継承者をめぐって王族内が対立。内紛が起こり衰退。グシ・ハン王朝
1720年 清朝、ジュンガルに占領されていたチベットに進駐。カンチェネ・ポラネの2人を
「宰相」に任命、チベットを間接統治。
グシ・ハン王朝
1723〜24年 清朝の雍正帝チベット征服.。ホショト支配の終焉。
1728年 宰相ポラネが内乱を鎮圧。清朝から全チベットの蔵務総理・郡王に任命され
、事実上の「チベット国王」となる。
1750年 チベットで反清暴動が勃発、ポラネの子ギュルメ・ナムギェル郡王暗殺。清軍が進駐。
清朝による統治
1758年 ダライラマ8世代(1758-1804)
1805年 ダライラマ9世代(1805-1815)
1816年 ダライラマ10世代(1816-1837)
1838年 ダライラマ11世代(1838-1855)
1893年 英国、清朝との間に蔵印条約(シッキム・チベット条約)を調印
1856年 ダライラマ12世代(1856-1875)
1934〜1936年 中国共産党が行った長征の途上においてチベット社会とはじめて接触をもつ。
1876年 ダライラマ13世 摂政時代(1876-1933)
1902年 イギリスのチベット侵攻
1903年 ヤングハズバンド大佐率いるイギリス軍がチベットに遠征
1904年 英軍、ラサ占領。ラサ条約締結。
英、チベット・インド条約を結び、チベットを支配下に置く。
ダライ・ラマ13世はモンゴルへ亡命
1906年 英清北京条約で、清朝は1904年のラサ条約を承認。
1909年 清朝、大軍派遣。ダライ・ラマ法王、撤退要求。
1910年 清朝、東チベットに西康省を設立。四川総督・趙爾豊率いる清朝軍がラサに侵入。
ダライ・ラマ13世インドへ亡命。清朝、ダライ・ラマの廃位を宣言。
1912年 英軍、チベット侵入、キャンツェ以東を占領.。辛亥革命により清朝が滅亡。
ダライ・ラマ13世チベットに帰還、、チベット独立宣言。
1913年 モンゴルと蒙蔵条約
1914年 英国・チベットの間でシムラ協定締結。(中国の宗主権を排除、チベットの独立を容認)
1917年 中華民国軍、東チベット侵略
1918年 チベット・中華民国休戦協定調印
1932年 中国、チベット協定に調印
1933年 チベット・青海省境界線協定調印。ダライ・ラマ13世死去
1937 年 パンチェン・ラマ9世死去
1939年 第14世ダライ・ラマ法王即位(1935〜)
1940年 ダライラマ十四世の即位式典に列席した中国の使節団は、式典のちも帰国せず、
「中華民国蒙蔵委員会駐蔵辧事処」を名乗ってラサに留まり続ける。
1948年 チベット政府、中華民国代表部(蒙蔵委員会)の強制退去を命令
1950年 チベット政府代表団、デリーで中共大使と会談。この交渉中に中国人民解放軍、
東チベットを制圧。
国民議会、第14世ダライ・ラマ法王への全権を満場一致で確認。
ダライ・ラマ法王とチベット政府は中共の侵略に抗議。
1951年 中国人民解放軍がチベットの首都ラサに進駐、「チベット解放」を宣言
1952年 人民解放軍チベット軍区設置。中国は「独立国」チベットを廃止、「チベット自治区」設置。
1959年 ラサ民衆決起
ダライラマ十四世、インドに亡命。
チベット臨時政府樹立宣言
1965年 チベット自治区成立

  吐蕃王朝(とばんおうちょ
    古代チベットを統治した王朝。7世紀半ばにチベット高原を統合、9世紀半ばまでの二世紀に渡りこの
     高原を統合、支配し、さらに東西南北の隣接地域に進出し、勢力をふるった。
     六世紀初頭より近隣諸部族に対する征服が急速に進展し、第33代ソンツェンガンポ王(在位620年〜
     650年)はチョンギェ地方からラサに入り、チベット高原主要部の統合を完成させた。

     ティソンデツェン王は仏教を国教とする方針をたて、9世紀になると仏教指導者が国政を行うようになり、
     大蔵経の訳出などを行った。822年には、中国との間で、対等、平等の形式で国境画定と和平を定めた
     条約を締結した。その後ほどなく、仏教めぐって対立が起こり、王位継承問題から南北に分裂、やがて
     滅亡した。


  グシ・ハン王朝
     1642年に、西モンゴル・オイラト族のホショト部の指導者グシ・ハン(トゥルバイフ)がチベットに樹立した
     王朝。
     この王朝の支配者は代々の熱心なダライラマ信者であり、この王朝の成立により、チベット仏教界に
     おけるダライラマの地位は劇的に向上し、宗派をこえた政治・宗教の最高権威としての地位が確立
     された。
     18世紀初頭、ダライラマの継承者をめぐって王族内に激しい対立が生じ、ジュンガル部(1717年)、
     清朝(1718年、1719年 - 1721年)など外部勢力を導きいれての内紛を起こして衰え、1723-24年、
     清朝の雍正帝に征服された。

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  ガンデンポタン(チベット政府)
   ガンデンポタンは、ダライ・ラマを長とし、ラサを本拠として1642年に成立したチベットの政府。
    1959年、チベット動乱の際、ダライ・ラマとともにインドに脱出、現在はチベット亡命政府として十数万人
    からなるチベット難民組織の頂点に位置する。

    その呼称は、ポタラ宮殿の完成する以前、この政府が本拠を置いていたデプン寺の「兜率宮殿」に由来
    する。チベット政府としての正式呼称は「ガンデンポタン・チョーレーナムギャル(, 諸方に勝利せるガンデン
    ポタン)」。

    ガンデンポタンの組織は、時期によって変化がみられるが、基本的に、カロンと称する大臣もしくはカシャク
    と称する内閣を指導部として、宗教業務を担う僧侶と、世俗業務を行う俗人役人からなる二本立ての組織
    を有していた。
    その組織機構の変遷は、次のように時期区分できる。

     1.ダライラマの下にハンとデシーが並立(1642-1706)    
      2.ハンによるデシー打倒(1706-1717)
      3.ジュンガル軍の占領下(1717-1720)
      4.三閣僚(のち五閣僚)並立体制(1720-1727)
      5.ジュンワン(郡王)政権(1727-1750)
      6.カシャク制(1751-1910)
      7.ダライラマ十三世の近代化とその後(1910-1959)
      8.亡命政権時期(1959-2005-)


  ダライ・ラマ(Dalai Lama:意味・智慧の大海)
    チベット仏教の最高指導者。観音の造ったと言い伝えのあるチベットにおいて、観音の化身と見なされる。
    宗教的指導者であり為政者。代々予言に基づいた生まれ変わりの化身によって引き継がれて来た。
    現在の指導者はダライ・ラマ14世(1935年〜)。


  パンチェン・ラマ
   チベット仏教においてダライ・ラマに次ぐ高位の僧。
     阿弥陀如来の化身とされ、転生(生まれ変わり)によって後継者が定められる。
    第10世パンチェン・ラマは、七万言の書によって中国政府のチベット政策を批判。
    その翌日、突然死した。
    第11世は、現在行方不明。


  「長慶の会盟」
  
  821年唐との間で結ばれた平和条約。
     条文はチベット語と漢文で書かれ、三柱の石碑に刻まれた。
     1本目はクンク・メル山において国境を示し
     2本目はラサ、3本目は唐の都、長安に建てられた。

   「チベットおよび唐は、現在の国境を遵守すべし。国境の東はすべて大唐帝国に、西は大チベット
   帝国に帰す。これより後、いずれの国も兵を挙げて隣地を侵してはならない。」
(条文の一節)

   中国側はこの条文の解釈を改竄し、チベット併合の根拠にしている。
   
「チベット人と漢人は、双方の皇室による通婚と同盟を通し、政治面では友好的な姻戚関係を固
   め、経済・文化の面でも緊密な関係を結び、統一国家建設にむけて堅固な基盤を築いた。」
   
(中国の白書による解釈)

    
チベットと中国の史書を見る限り、このような解釈が成り立つことはありません。
    両帝国は、それぞれ別の国として記載されているのです。
 


 

 チベットは政治的にも文化的にも中国とはまったく別の国です。




  参照:ダライラマ法王日本代表部事務所・Wikipedia


         

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